新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

タイトルが美しい・・・『松籟』

2022年05月04日 | 本・新聞小説
友達の友達の友達から送られてきたという本が、私にまで回ってきました。黒を基調としたカバーには家紋が描かれた神部眞理子『松籟 』です。

タイトルを見て、一瞬等伯の松林図を思い浮かべましたが、よく見ると等伯ではなくて「狩野永徳伝」でした。

狩野派と言えば元信、永徳、探幽・・・が頭に浮かび、あとはひっくるめて狩野派の絵と見てしまいますが、この本は狩野元信が幼い孫・永徳の落書きに、並々ならぬ才能を見いだすところから始まります。元信は常に新しい絵画を模索して時代の最先端を歩み続け栄光の晩年を迎えました。永徳は常にこの祖父を念頭に置いて精進したのです。

将軍義輝に依頼されて「洛中洛外図屏風」を制作し、関白近衛前房の屋敷では襖や屏風を製作、名声は揺るぎないものになっていきます。

   「洛中洛外図屏風」

圧巻は大徳寺聚光院の何十枚もの襖絵を制作する場面です。「墨という画材、花鳥図という画題、すべて伝統の中にあるのに、それにもかかわらず全く新しい絵」を描きます。この「四季花鳥図」と「琴棋書画図」が ″永徳の出発点は聚光院にありき″ といわれるものです。

     「四季花鳥図」


    「琴棋書画図」

信長の時代には、肖像画から始まり、安土城の襖絵、板絵すべでを任されて狩野工房は2年をかけて完成させます。

    「織田信長像」
更に信長は安土城と城下全体の屏風絵を描かせます。それは後に宣教師ヴァリニャーノと少年遣墺使節団によりバチカンに届けられ、法王庁の壁に飾られたという記録があるそうです。
ただ、その豪華絢爛な安土城は3年後に戦の中で焼失してしまいました。

秀吉の時代には、きんきら金の大阪城、聚楽第の襖など何十枚も描くことになり、秀吉の金碧画の注文に沿わせながら新しい画法を探ります。

       「唐獅子図屏風」
他に並ぶものなしの狩野派に陰りが見え始めたのは、長谷川等伯が台頭してきた頃です。かつては父直信の工房に居た等伯ですが、そこを離れ狩野派とは違った画法を編みだし利休を介して御所や寺社の襖絵に侵入してきます。
永徳は「決して他派の台頭を許してはならぬ。一度流れが変わったなら、再びそれを引き戻すのには何倍もの力が必要となる」と不安を持ちました。
そしてその危惧が現実のものになり、秀吉の長子鶴松の死後に建立された菩提寺の祥雲寺の障壁画は等伯一派に任されました。

永徳は立て込んだ仕事量の中にも、等伯を意識して東福寺の天井画の依頼を受けますが、過労がたたり48歳の命を終えます。

しかし、狩野工房は結束して巻き返しを図ります。関ケ原、大阪の陣を経て江戸に本拠を移します。さらに等伯の後継者が途絶えたこともあり、徳川家に密着することに成功しました。
狩野派が天下一の絵師集団として画壇に君臨するようになったのは、永徳の次男孝信の子探幽の時代になってからです。

本は「桃山時代の天才絵師狩野永徳州信は不運である。彼の描いた莫大な絵は現在ほとんど残っていない。わずか十点ばかりがその手になるとみなされるにすぎない。己の絵が残っていないことほど絵師にとって不幸なことはないだろう。今、永徳は、菩提寺妙覚寺にある敬愛する祖父元信の墓碑の隣に眠っている」と締めくくられています。

大活躍の裏の不運・・・。何よりも戦乱の炎は力を振り絞った絵をことごとく焼失させてしまったのです。著者はここに蕭々と松籟を聞いたのかもしれません。




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