栄一が「兄ぃ」と呼ぶ従弟、そして師でもあった尾高惇忠は明治になると間もなく富岡製糸工場長になります。こうして惇忠が政府に仕えるようになったのは栄一の後押しがあったのだと思っていました。
ところが、BS-TBS「にっぽん!歴史鑑定」で惇忠と富岡製糸場の特集が放映され、手計(てばか)村での惇忠の活躍が民部省 (玉乃世履)に認められて、民部省に仕えることになったということでした。
ところが、BS-TBS「にっぽん!歴史鑑定」で惇忠と富岡製糸場の特集が放映され、手計(てばか)村での惇忠の活躍が民部省 (玉乃世履)に認められて、民部省に仕えることになったということでした。
明治2年間、火山噴火の土砂が利根川に流れ込み、そこから手計村に引いている用水路(備前堀)も流れが止まり使えなくなりました。
政府はそれを放ったまま、強引に別の新しい用水路建設を計画します。取水口が変われば手計村には水が来なくなり、農作物に大打撃になります。
政府の専横に、惇忠は流域の農民の代表として直接政府と掛け合います。
備前堀の必要性、農民の負担で修繕するというしっかりした説明と熱心な陳情に民部省(玉乃世履)はすっかり心を動かされます。
「このような人材を民間に置くのは国家の利益ではない」とすっかり気に入られ、こうして惇忠は民部省に仕えることになったのです。もちろん陳情は成功しました。
折しも、政府で活躍している栄一は富岡製糸場建設計画を任されており、現場責任者を探しているところでした。
惇忠は能力に優れ養蚕の知識もあり、栄一はためらいなく惇忠を抜擢しました。建設中も操業開始後も富岡製糸場の工場長として経営に力をふるいます。
大正時代「女工哀史」のイメージはブラック企業。しかし、富岡製糸場は夏場は昼休み4時間、福利厚生も充実しており「超ホワイト企業」だったということです。
万博で日本の生糸の優秀さが世界に広まり、生糸の輸出増大を前に安定供給を図るべく年に一度の「春蚕」に「秋蚕」を増やそうとしますが、政府とは意見が合いません。国益、富岡製糸場のためを思ったのにと、政府に嫌気がさしてついに工場長を辞することになります。
その後は第一国立銀行に入行し盛岡、仙台の支店で63歳まで務めます。