新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

伊集院静『ミチクサ先生』 その⑫ 338~383

2021年07月09日 | 本・新聞小説
帝国大学の教師をしながら、金之助(漱石)は『吾が輩は猫である』『坊っちゃん』『草枕』など次々に発表します。
このころ読売が新聞小説の人気で発行部数を伸ばしていたこともあり、いくつかの新聞社が漱石のスカウトに動き始めます。

東京朝日新聞の主筆・池辺三山は『草枕』を読んで、社の筆頭となる小説家として入社させたいと思いました。『草枕』は金之助が初めて女性を登場させた小説で、三山は当時の読者が何を読みたいかを分かっていたのです。

『草枕』は、漱石が小説を書くことに専念するための準備として書いた初めての小説です。『大人の男と女が、それぞれの内面に触れながら、物語が進行していく、いわば“河のごとき小説“』のはじまりでした。
金之助がそれまで小説と思っていたものは英、独、仏の海外作品ばかりでしたが『自分は自分の小説を日本語で書くべきだろう』と。

熊本時代に山道を歩きながら、ふと口にした『山路を登りながら、こう考えた。知に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい』が、この本の冒頭を飾った文章です。実に、この小説の構想と文章を10年近くも熟考していたのです。

こうして明治40年3月帝大を辞めて朝日新聞と契約を交わします。
朝日の初めての新聞連載『虞美人草』の文語体を脱した自由な文章の掲載が始まりました。
この執筆中に胃痛がかなり進展、執筆に障ることもあり『酸多き 胃を患ひてや 秋の雨』の1句も。

41年の正月は早稲田南町の新居で迎えます。4女1男の賑やかな家族になりました。
『虞美人草』『坑夫』の次は瑞々しい青年を主人公にした『三四郎』の連載。執筆も快調でした。
この頃「あの猫」が亡くなり『氏は庭先に丁寧に葬って自筆の墓標を建て、黒枠付きの死亡通知を知人に出した』と朝日新聞が載せるほどでした。

42年秋、旧友の満鉄総裁・中村是公の段取りで満州、朝鮮の40日間の旅行をします。一流の船室で、一流の宿に泊まり、一流の人々に挨拶を受け、たちまち金之助は体調を崩します。

ベストセラー作家になった漱石は印税、給料で年収5000円、官僚トップに匹敵しますが、家計は困った状態で愚痴が出ます。子沢山の教育費、見劣りしない暮らしをという妻・鏡子の経済観念も問題でした。

そして体調は最悪に、とうとう『門』の執筆中に喀血します。病院を避けていた金之助が、初めて自分の病気のことを真剣に考えた瞬間でした。

金之助が生涯敬愛したのが、早世した米山保三郎(一高時代の旧友)と才能も人柄もかっていた子規です。
(米山 + 子規) ÷ 2 = 寺田寅彦。寅彦との交友の濃密さも信頼の表れでしょう。
朝日新聞と、寅彦や泉鏡花などたくさんの作家の執筆を取り持つなどまるで編集者のような心配りもしていました。



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