第10次(諸説あり)遣唐使派遣が発表されました。真備は太宰府に流された今の状況から抜け出すには再び遣唐使に加わって成果を上げるしかないと大胆な行動に出ます。
その策とは唐の最新の仏典、仏具を買い入れて帝や皇后に寄進して唐の事情に通じていると訴えること、そして帝が望んでいる伝戒師としての鑑真を唐から連れて帰ることです。
真備は那の津(博多湾)で志賀島水軍棟梁·日渡当麻に接触し、唐の大商人·石皓然の配下の交易船の仲介を依頼します。

石皓然は真備の留学時代の妻の父親です。真備には娘婿と言う立場を生かして有利に交渉を進める意図がありました。
用意した日本産出の良質な硫黄20箱のうち6箱で貴重な仏典を手に入れます。
その船にはかつての妻・春燕と息子·名養も乗っていました。真備も春燕も各々が再婚し、春燕は石皓然の店と財産を全部受け継いで、大商人として唐国内でも活躍していました。
その春燕とは残る14箱の硫黄の取引で、鑑真上人を日本に連れて帰る話をまとめます。春燕の出した条件は硫黄を他の商人に売らないこと、息子・名養が日本で修行できるようにすること、でした。
春燕の義兄·安禄山が契丹との戦いに勝利して玄宗皇帝に寵愛されているのは、日本の優良な硫黄を手に入れ、火矢や狼煙として用いているからでした。
自分が遣唐使に任じられたら鑑真上人を日本に招くという確約の手紙と、硫黄と交換に手に入れた金銀財宝の目録を都に送り届けます。
結果は上上吉。打った手はすべて当たり、751年11月遣唐副使に任命されます。
745年、聖武天皇は藤原氏の妨害にあって紫香楽宮から平城宮に戻り、東大寺に大仏の建立を定めます。
749年聖武天皇は表向きは病弱の理由で娘・安部内親王に譲位させられます。この退位により、再び天智派の藤原氏が主導権をもつようになります。
退位後、新薬師寺に移った聖武上皇は鑑真の件も仏典も心から喜び、その大般若教の写しを名養が受け持つことになりました。真備の唐での息子が日本に渡来し書家としての道を歩み始めるきっかけになりました。
東大寺に、味方とも言うべき良弁を訪ねた真備は鍍金を終えて光輝く大仏を案内されます。鍍金は熱した水銀に金を溶かし、大仏に塗りつけた後で火を焚いて水銀を飛ばすというものです。真備は短い間にここまで進んだ技術に目を見張ります。
4月に行われるという大仏開眼供養には、宇佐八幡宮の八幡神が大仏の守護神として登場することになっています。仏教と対立する日本古来の神との融合。これを神仏習合の象徴としてして挙国一致の体制を作ろうという苦肉の策です。
真備も人々の平安と幸せのためなら、人間の都合で神々を左右したり、神仏の力を借りることもやむを得ないと考えます。
遣唐使の一行は、この開眼供養には出席すること叶わなく唐に向かって旅立ちます。