毎晩ろくに考えずに書いていたら、ずいぶん長くなってしまいました。 今夜は文字ばかりが延々と続きます。 すみませ~ん。
校長先生が押し売りに行った先はー?
まず教育委員会。 干し柿の好きな方がいらしたらしく一人で10パックぐらいまとめて買ってくれました。 そのほかの人はおつきあい? 追加注文がきたときもありますから、本当に好きで買って下さった方もいたのでしょう。 教育委員会の職員の方は、毎年注文をとりまとめて買って下さいました。
次に行ったのは、仲のよい校長先生のいらっしゃる学校。 これも友だちのよしみで注文をとりまとめてくださいました。 だから、K校長先生の次にT小学校へ赴任して来られた、H校長先生は、自分も干し柿を売る覚悟で来られたそうです
2,3年後には、新しくできた学校給食センターへも売りました。 町内のすべての小中学生がT小学校の干し柿を食べる日があったのです。 でも残念なことに、干し柿は嫌いだという子がけっこういるんですね。普通の柿ならいいんだそうです。 甘くておいしいのに。
校区内のお年寄りのうちにも干し柿を配りました。 年に何回か子どもたちは一人暮らしの高齢者を訪問して交流していたのですが、そのお土産に持って行きました。 これは大変喜ばれました。
そのうちに干し柿作りは、マスコミの注目するところとなりました。 新聞やラジオで紹介されたり、テレビに出たりするうちに、一般の人から注文が入るようにもなりました。 遠く松山市の人から注文を受けたこともあったのですが、郵送してまで買っていただくのは本末転倒というもの。 丁重におことわりしました。
農家から寄贈される柿も、売り物の立派な柿が届くようになりました。 こどもたちがむくのに苦労していることを聞いた校区のおばさんは、ピーラーでむくと早いよと教えてくれましたが、わたしたちはあくまで包丁むぎにこだわりました。 干し柿を作ることが目的ではなく、 みんなで力を合わせて作る過程にこそ教育の意義があると考えていたからです。
こんなふうに、干し柿作りは地域の誇りになっていきました。
わたしはこの学校に6年勤務して他の学校に転任しました。 女教師はわたし一人、しかも最年少で始まったT小学校の勤務ですが、4年目からは年配の先生に代わって、若い先生(男性と女性)が転任してきて、ぐっと若返りました。
わたしが出た後、木造の校舎は取り壊され、小さいながらも立派な鉄筋コンクリートの校舎になりました。 干すところがなくなったため、運動場にテントを張って干すようになりました。
8年後、わたしは再びT小学校に勤務したのですが、わたしは管理職以外では最年長の教師になっていました。
児童数も増え、柿むぎは大イベントになっていました。柿むぎ初日には、テレビ局やら新聞記者やら町の広報担当者やら5,6人が、柿をむぐ児童を取り囲んでいるという有様でした。 柿の量は半端ではなく、干すのにテントを3張りも立てていました。
わたしは5年勤務して、転勤したのですが、その後Oー157の事件があって、おとしよりに柿を配るのはやめ、給食もやめたそうです。 そして40人近くいた児童も、ひとけたにまでへってしまいました。
先日、出かけたついでにちょっと回り道をしてT小学校へ行ってみました。 校庭の、ずっと変わらない位置にテントが一張り立っていて、柿が干してありました。 最近は防犯上の理由から門扉にもかぎがかかり、自由に入ることはできません。 遠くからズームで写真をとらせてもらいました。
思えば学校もずいぶんと窮屈になったものです。