ひゃあ~ ついにゴールデンウィーク突入ですね。
不要不急の外出を避けるように、との、3月、4月でしたがー
実家の、亡き父母の住んでいたスペースを取り壊すとのことで、何度か桜三里を越えました。
毎年今頃になるとナニワイバラの花が屋根まで這い上がっていた実家

母が大好きだったバラです。
それもすべて取り除かれて更地になった我が家。ふらっとやってきた甥っ子も交えて、外で立ち話。思い出話が尽きませんでした。
すみません、ここからはぐだぐだと長話が続きますので、さらっと読み飛ばしてください。
ぼうぼうだった前庭の植物はほとんど切り倒されて亡くなっていました。
「イブキは?」
「あれは残しとったんじゃけど、土建屋がいつの間にかおがして(掘り起こして)しもて、気がついた大工が真っ青になっとった。いらん、いらん、気にせんでええ、言うといた。」
方言丸出しの会話に、弟の奥さんの東京弁が混じります。
「ハナスオウも残したかったのだけど、ばらばらになっちゃって。」
ハナスオウはわたしが物心ついた頃からあったと思います。わたしあの、強烈な赤紫の色はあまり好きではありませんでした。今はなかなかいいなあと思いますけど。
こんな花。とある場所にまだ咲いていましたので、きれいなところだけ撮ってきました。


同じく子どもの頃からあって好きだった花
白の椿。もうシーズンは終わりかけですが、まだ咲いていました。
当時の木が残っているとすれば樹齢は70歳以上。だけど弟と二人で記憶をたどっていくと、元の場所にあった椿ではないとわかりました。元の木を移植したのか、子孫を移植したのか。

夕日をあびてほんのりピンク

思い出した、今この木があるところは元々は田んぼだったのです。梅雨頃、赤い小さな蛇が泳いでいたなあ。
子どもというのはこんなくだらないことを鮮明に覚えているものですね。
「そばの柿は西条柿?」
「いや、富有じゃ。
西条柿はあれ。あのへんまで田んぼが斜めにあった。」
そうだ細いあぜ道があって、実のならないアケビがからんでいたっけ。
このへんに母屋があって、玄関を入ると左に座敷があって、土間の奥にかまどがあって・・・・ 記憶に残る一番古い家は、弟とわたししか知りません。
小さな小さなわらぶき屋根の家でした。うちの前も後ろにも瓦葺きの大きなおうちがありました。
うちは貧乏でしたが、器を持って豆腐を買いに行く時代。お金があっても贅沢のしようもない田舎でしたので、貧乏だという引け目は感じませんでした。
裏の家との境に石垣があって、こんな花が咲いていました。

祖母は、このキランソウや、ドクダミやヨモギを干して薬湯として飲んでいました。
炊事場を出ると少し離れたところに井戸があって、手押しポンプでくみ上げていました。同じ村に住む伯母のところは、つるべの共同井戸でしたから、まだましだったのかなあ。洗濯物を濯ぐとき時、ポンプを押すのは子どもの役目でした。井戸からかなり離れたところに風呂場とトイレとがあって、そこへはバケツで水を運んでいくのです。それも子どもなりに持てる量を運んでいました。開発途上の国の子どもたちと同じです。
台風通過後の朝、屋根の藁が飛んで青空が見えていたこともありました。あんな状況でも子どもは寝たんだねえ。
「台風の後、飼うとったヤギが死んで・・・」と弟。
「台風の雨風で死んだんじゃと思うとったのに、その前にひがんばなを喰わせたんじゃと。それをばあちゃんが(母)が死ぬ前に言うてー 60年もたって初めて知った。」
今となってはもう、笑い話ですが、母が打ち明けなかったのは気がとがめたからなのか、ヒガンバナに毒があると、年をとるまで知らなかったからなのか?
「だれも教えんかったんかねえ、」とわたし。
亡き母は戦時中に小学校、中学校と過ごしました。ろくに勉強はしなかったようです。ヒガンバナのことなんか、先生も教えなかったのかもしれません。みんなその日その日を生きていくのに懸命な時代だったのでしょう。修学旅行にはおむすびと梅干しの弁当を持って、山を越えて今の久万高原町に歩いて行ったそうです(信じられない!)代用教員の先生は、お金持ちの子どもだけをひいきしたとよく話していました。
こんなふうに不便な暮らしだったけれど、つらいと思ったことはありません。祖父は歩いて小一時間かかる山に果樹を植えていました。収穫を手伝う母について行って一日中遊びほうけて、祖母や母や従姉妹と歩く帰り道は、ハンミョウを追いかけたり、リンドウを摘んだりして楽しかった。
戦時中の飢えを経験している母は、食べられる野草をよく知っていて、いろいろ教えてくれました。
おやつはふかしたサツマイモ、塩ゆでのジャガイモ、はったい粉(煎った麦の粉)、焼き米(田植え用の籾の残りを煎ったもの。)庭の柿やユスラウメやしゃしゃぶ(グミ)
考えてみたら、まだわたしの記憶に残る時代(さほど遠くない昔)に、そんな暮らしがあったのです。そして戦時中の暮らしを親から聞いて知っているのが今の高齢者です。多少の不便や不足には堪えられるはず。
今年の子どもたちは突然の休校で卒業式もろくにできなかったけど、戦時中は卒業証書ももらえない学生はたくさんいたそうです。勉強の遅れが心配される今年の子ども。けれど、あの時代に子どもだった母は、愚かな人ではなかったけど、学問的には驚くほど無知でした。学業半ばで戦地に赴いた学生もたくさんいました。
父は志願兵として南方戦線に行き、飢餓地獄から生還しました。
その後、我が家は当時はまだ珍しかった最新の文化住宅に替わりました。あの「うさぎごや」欧米人にと揶揄された家です。だけど、蛇口をひねれば水が出て、寒い思いをしてトイレや風呂に行かなくてもいいようになりました。
松山市の会社に勤めていた父は、いち早く街の文化を我が家に持ち込んでいたようで、うちには物心ついたときからサンタさんが来たし、手押し式の石油コンロなども早くから使っていました。
後は高度成長の波に乗って暮らしは便利になる一方。そんな時代にわたしは大きくなりました。
平和と豊かさと便利さにどっぷり浸かっていたその最中の突然のコロナ禍を、戦争にたとえる人もいます。不足する物資、食料、経済の停滞、行動の制限など、確かに似通ったところはあります。
ちがうのは、敵が見えないこと。日常生活の一部に入り込むが故に、みんなが同じ方向を向いて戦えないことです。恐怖のあまりウィルスと戦う最前線の人を攻撃したり、排他的になったり、自分のためだけに物を買い占めたり・・・・物のない時代にはお金持ちも貧乏人も贅沢をしようもなかったけれど、今は困窮の度合いがはっきりと分かれること。
やっかいなことです。けれど
これからは、何が大切なのか、そぎ落とすべき飾りは何か、真剣に考える人が多くなるような気がします。よりよい社会の仕組みも生まれるかもしれません。