柔道を修行するということは、ただ単なるトレーニングということとは違う世界のことである。
練習とも鍛錬とも違う。
ましてや、そこに利益誘導型の発想はない。もうかるからとか、いい学校に行けるからとか、ステータスが上がるとか、ステップアップとかのためにやるのではない。かの司馬遼太郎だって、龍馬の修業時代のことは書いていない。武道をやるということは、究極のところ、リーダになるためのものであって、そこのところが分かっていないと、ただの乱暴者の技術でしかなくなるのだ。
そんなことを昨日の柔道の小学生卒業を祝う会で、酔っ払ってくっちゃべったのだが、いいことを云ったもんだと思った。所詮生涯4段の素人柔道人であるが、それくらいのことは云えるのである。また、云わなくちゃならんのである。
勝負にあけくれ、ただただ強くなることのみを追求していちゃアカンとオレはマジに思っているからだ。
勝つためにだけに努力している姿はみっともない。
研究者になりたいとか、学者になりたいといって、全ての人間関係を破綻させているのと一緒だよん。
すべてオノレの立身出世のためだけに、他人を利用して、蹴落として、そんな人生何が面白いのだろうねぇ。
オレはそうやって随分利用されてきたが、ま、いいかと思っている。そういう輩は、哀れだからだ。オノレのみっともない姿に気がついていないからだ。
そして、成功したとオノレだけは思っていても、所詮低レベルの話であって、田舎柔道や、田舎研究者のはすっぱな話でしかないのだ。
そこらへんはオレは自分に対して厳しく自問自答しているのである。
専門家でもなんでもないしなぁ。
柔道も、文学も、民俗芸能学も。
暇なじじいの手慰みでありまするよ。
ただし、やるときは、徹底してやっているけどねぇ。
わははははっはっははっはっは。