「日本の有名な企業には、肩書きは偉いけど働かないおじさんが居て。その人に高い給料を払うため、きっと若い人は安い給料で馬車馬のように働いている。不思議なことにそれで何十年も回っている企業もある。これから続くかわからないけど。そういう企業を選ぶかは君次第だよ。」という話を学生にした。
【出生率低下】厚労省が情報操作していたことが判明‥「実際は大部分の県で上昇または横ばい」東北大が指摘 blog.livedoor.jp/moeruasia/arch… 厚生省はわざとやってるよね、出生率文句言ったり子宮がんワクチンとか。日本人女性に産ませたくないのだろうか
私は哲学を読者に教えるという気はまったくもっておりません。そうではなくて、哲学というものと私との付き合いの理由は、哲学が私を変えるところにあります。その変わった自分自身を物語の形で表現したいのであって、哲学の教えそのものを誰かに伝えたいとは決して思っていないのです。 『物語と夢』
NHK head Katsuto Momii says he withdraws "comments" on comfort women but his opinions haven't changed from what he said.
エマーソンはあらゆる生真面目さの出鼻をくじく、あの善良で、才気煥発な快活さを具えていた。自分が既にどれだけ年をとっているか、これからまだどれだけ若くいられるかを、彼は少しも知らない。-偶像の黄昏-
「それは、『すごいゴーストライターがいない』ことも、問題じゃないかということだ。もっと言うと、ライター自体、数はいても、仕事を安心して任せられる人がいないのが問題じゃないか」RT 出版界の今、そこにある課題(常見陽平) blogos.com/outline/80482/
孫は教育の原点
今は、朝の3:36である。
そうなのだ。朝型の読書タイムに切り替えたのだ。孫がいるから、一緒に寝てしまうのだ。じじいのオレが、じゃぁお休みというと... goo.gl/b4aYhu
啓蒙主義者の正統性の主張は普遍的で情け容赦もなく、独占的なのに、その教条の残酷な必然的帰結を実行する者がいると、どうして彼らは驚愕するのだ?それとも、彼らはとどのつまり、自分たちが説くことを真面目に信じていないのだろうか? 『エンデのメモ箱』
唯物主義とは、すべてになんらかの説明を用意している世界観だが、それ自体の存在は説明できない。唯物主義は、それ自体を最後までよく考えないあいだだけ存在できるのだ。 『エンデのメモ箱』
ツァラトゥストラとイエス:『ツァラトゥストラ』は、妙にリアリティを欠く背景や状況の描写までを含めて新約聖書の叙述様式の模倣である。ニーチェにはイエスに強い対抗意識があり、彼はツァラトゥストラに、イエスと同じ語彙を用いてイエスと反対のことを語らせる一種のパロディを試みている。
メディアは言われた言葉をそのまま伝えるだけではなく、意味がわかりづらい言葉にはきちんと解説をつけるべきだと思う。一見易しい言葉でも、文脈によっては意味がわかりづらいことがある
国文研の図書館でマイクロ複写を依頼してたのが、今日到着。依頼して、料金のお知らせがあって、現金書留で料金を送って、全部で1週間。使える。最近は野に下っても十分研究できる環境が整ってきた。
私は、真に自由な科学とはどのようなものかと自問するのです。つまり、経済的利用や軍事応用といった命令下ではなくて、本当の意味で自由に研究できることですね。そうすれば、そこからは全く違うものが生まれるでしょう。 『エンデの文明砂漠』
なんか、がむしゃらに働いて4千万円稼ぐ。みたいなのを読んだが。金は1円だって多いほうがいいが、それは自由と健康を買うためなので、自由を捨てないと稼げない金なら意味がないし、健康損なったらなおの事意味がない。
■「せせらぎや川を流れる輝かしい水は、ただの水ではなく、われわれ祖先の血だ。湖の水面に映るどんなぼんやりとした影も私の部族の出来事や思い出を語っているのだ。かすかな水の音は私の父の父の声なのだ。」【シアトルの酋長】
今、15:43である。
居住地の大図書館にいる。今朝の4時前から原稿を書いていたので、若干疲れた。
そろそろ帰りましょう。188枚になった。ようやく第?部の原稿を書いている。ちょっと... goo.gl/bMMkl3
「不安がるのが流行っているけど、流行に乗っても愚かなる大衆になるだけだからやめなさい」と。「不安なときは楽天的になって、みんなが楽天的なときは不安になれ」とね。よくわかんないけど(笑)。
amzn.to/18uWSn6
どちらが原因でどちらが結果か、あるいはどちらが先にあるべきものかといったようなことは、はっきりは申し上げられませんが、内面のユートピアと外のユートピアは関連付けて考えなければいけないものだと思います。 『物語と夢』所収「物語とは何か?」
勝負は心的態度のあり方
すっかり朝型の生活になってきた。
今は、4:09である。しかも、昨日はヨルバイトの塾があったから遅かったのだ。帰ってきたのが。だからよくもまぁ起きられたよん。
塾は楽しかった。「国語がこんなに楽しいなんてぇ~~~」という感動的なことを、女子中学生(2年)に言われた。女子の生徒は久しぶりである。なんと、ほめてくれたらしいのだ。後は、いつもの男子中学生三人である。数学と国語。ハンハンである。いつまでできるか、(オレの能力的に)まったく自信がなかったけれども、三年目に突入しようとしているのが実に不思議である。大学院もそうだ。四月から三年生になるらしい。まだ決まっているわけではないのだが。こっちもそうだ。よくまぁ続いているよ。能力もないのにねぇ。しかも、研究者とか学者の先生たちの世界を覗かせてもらっただけで、オレは幸せだとしなくちゃなぁとしみじみ思っているのだ。
こちらは、大学院ばかりではない。郷土史の世界もそうなのだ。郷土史といってもいろいろレベルがあって、会員がどれだけご自分の著書を出しているかどうかというのも、レベルを示す資料になるとオレは思っている。その点、実に満足している郷土史の研究会である。メンバーが凄い。しかも百名を超している。大学の先生も多い。大所帯である。こういう会に参加させていただいていることを大事にせにゃアカンですなぁ。本当にそう思う。今後は、この会専門にやっていけば、生涯学習としてもほぼ満足のいく活動ができそうな気もしている。「月に一度千葉市に出かけて、駄文をあちこちの所属学会に書いていくというスタイル」もあっていいような気もしている。なにも学校に行くばかりが生涯学習ではないとも思うのだが、所詮オレのやることだ。意志薄弱だから、こうやって大学院に通学しているだけかもしれないのだ。
実に弱い人間である。
その点は自覚している。
書くために読む、そして考える。書いてから、また考える。どっかに発表させていただいたらこれを良しとしなくちゃならないと思うのだ。そして、オレのできることはそれだけなのである。自己満足でしかないと云われるだろう。それは覚悟している。しかたないと思っている。むろん、オレなりに追求課題はある。それが世間に受け入れられないということもリスクとしてはあるだろう。それもまた仕方なしである。
要するに、勝負は心的態度のあり方である。それをオレは、十代後半からずっとやってきたような気がする。道の追求とかいったものに憧憬していたのだった。おかしな高校生であったなぁと思う。普通じゃなかったなぁ。反省しとるよ。
(^_^)3 フムフム。