天下無敵
オリンピックが終わろうとしている。
十分楽しませてもらった。感謝である。特にどれが印象に残ったということは避けよう。なんの意味もないからである。オレには。個人としてのファンはいる。応援もしていた。だからそれはオレ一人の思い出として、これからも生きていくつもりである。だから感謝しているのである。
そしてかなり考えてしまった。
毎日のように、「メダル何個?」「誰に勝った?」「***に負けた」という報道のあり方についてである。
そんなことがなにか意味があるのだろうか。
誰かに勝って、だれかに負けたというようなことしか考えられないのだろうかと思ったのである。まるで選手たちは、マシーンではないか。これでは。さらに、判で押したように、他者を楽しませてあげたい、勇気を与えてあげたいというメッセージである。これじゃあまりにも優等生すぎる。
もっと本音を言ってもいいのではないかと、ふと思ったからである。
そもそも「天下無敵」ということをどう考えるのであろうか。オリンピックで金をとったということは、「天下無敵」になったということなのだろうか。
天下無敵ということは、世界中でオノレに匹敵するものはいないということなのであろうか。あらゆる敵と戦ってこれを倒したから「天下無敵」なのであろうか。
ちょいと違うような気がするのであるが。
敵というのは、対戦相手とは違うのではないのか。
むしろ「自分自身の中にあるオノレの力を低下させる要因」こそ敵なのではないのか。自己との闘いとか、自分が弱かったとか、という一流のアスリートたちは、インタヴューでそのことを云っているのだろうとオレは思うのである。緊張も然り。上がってしまったというのも然り。試合直前、インフルエンザにかかってしまったのも、そういう本来持っているオノレの力を十分に出させてくれないものが、「敵」なのである。
敵というのは、試合相手ではないのである。
そのことを一流選手たちは本能的に知っているからこそ、十分なトレーニングをするのである。
オレのような中途半端な柔道人にとって敵は、「加齢と老化」である。しかしだからといって、若返りの薬を飲んだり、アンチエイジングと称して、健康増進をやっているのではない。じじいになったら、加齢と老化はあってあたりまえであって、特に気にしないという心的態度が重要なのである。心身のモードの切り替えがいかに出来るかということである。
風邪を引いていない、ハラも痛くない、元気で体調もいいという初期設定のオノレを標準設定にしているから、間違うのである。そしてそれを妨げるものを「敵」としてみなしてしまうから、敗者ができるのである。
横綱の白鳳が「木鶏」のことを云う。双葉山がよく言ったことである。中島敦の『名人伝』という作品はもっとおもしろく書いてある。これは読まれるべし。
弓の修行者(紀昌)が、弓の奥義をつかんだとして、師匠を襲う。ところが勝てない。
あとは自分でよまれるべし。
(^_^)