12:17である。
院生室にいる。昼食も食べ終わり、のんびりしている。ただし、午前中はかなり忙しかった。論文を印刷して、チェックしていた。しかも二つ。オレの駄文である。なかなかの作業である。まだ終わっていないから、これから午後もやって、家に帰って孫と遊んで、それから夜やろう。
これがオレの生涯学習の殆ど全部である。授業や講義を受けるというのもむろんあるが、殆どが自学自習でオノレでやっているだけである。だから楽しいのだ。しかも、どうしても教えていただきたかった師匠の側近くにいることができるのだ。こんな幸せはないのだ。
生涯学習というのは、これまで国語、文学、宗教、教育について、それで喰ってきたはずなのに、どうしても満足できないオノレが潜在的にいて、オレはそれこそ自己嫌悪に陥っていたのだ。こんな程度で良かったのかい?論文書けなくて、このまま死んでもいいのかい?って悩みだ。むろん、昇任試験の論文は書けた。書けたから昇任できた。しかし、今、書いている論文の方は質量ともにまったく異次元の世界である。
オレの云っていることはそんなことではない。本当にやりたかったことは、文学だったからだ。だから定年になってもオレはあきらめなかった。絶望はオレにはふさわしくないからである。
オレは、だから生涯学習を五十過ぎてから始めて、オノレの人格の初期設定をやってきたのだ。初めは放送大学大学院で教育学をやった。それから武蔵野大学大学院で人間学をやった。五十過ぎてからである。
仕事は当然厳しいものがあったから、絶対に誰にも云わずに努力していた。
そして、定年退職のその年に、3月19日に修士をとらしていただいたのである。その前には、在籍大学を受験して合格していたから、4月から花の大学院生として通学し始めたのである。
生涯学習というのは、こういうことである。
つまり自分を初期設定するということである。
だから、誰になんと云われようと関係ないのである。
あーたもやりましょうよん。
わはははっははは。