セイゴオぶひん屋7『中国』 松岡正剛
高校ではなかった修学旅行で神田にきてから
神田という町が好きである。何故か。古本店がたくさんあるからというのもある。しかし、神田は明治維新前から私塾の町であったからでもある。
江戸時代というのは、まことに不思議な時代であって日本史上こんな時代が存在したということが不思議でならない。学問を愛好した時代でもあったのだ。
福沢諭吉の慶応義塾もそう。幕末のあんな時代によくもまぁあれだけの教育をしたものである。もっとも、福沢諭吉翁がいたからあそこまで発展をしていったのであり、彼以外にはできない相談だった。学校経営をされる方はなぜ福沢諭吉が慶応義塾で成功したのかということをしみじみ考えるとよいと思っているくらいである。しかし、慶応義塾は三田にある。神田とは関係がない。
神田は、高低差のある土地である。
行ってみればわかるが、神田駿河台のあたりから急に坂を下るような傾きがある。明治大学のあるあたりからである。明治大学も今は日本一受験生の多い大学になったそうで、オレが45年前につまらない国文学徒であったときには、バンカラの学生が闊歩していた。中央大学もまだ駿河台にあったときで、しかも双方の大学は学生運動のメッカだった。立て看板ばかり立っていて、勉強は事実上できない時代でもあった。学生運動といえば日大も向かい側にあって、この駿河台というのはもしかしたら、ここから革命が起きたのかもしれないというくらいであった。
お茶の水の駅を挟んで反対側には東京医科歯科大学、順天堂大学があって、これまた古色蒼然としていたのである。
駿河台をくだっていくと低地になる。今の、三省堂書店、書泉グランデ、東京堂書店あたりがあって目をつぶっても歩ける。
共立女子大、専修大学あたりのある土地である。家康の時代には、沼地であったろうと言われている。神田橋から、神田錦町、一橋あたりまで広漠とした野原だったとものの本には書かれている。それをある僧侶が将軍からいただいて、寺院を造った。それが「隆光」という名前の僧侶であり、新義真言宗であった。護持院という寺を造った。要するに世渡りの巧みな坊主だったのだろう。今でも広大な土地であるから、それだけの規模を持つ寺院を経営するだけたいしたもんである。
この護持院ガ原に官立洋学校である開成所が開かれるのである。後に東京帝国大学となっていく源流である。
護持院ガ原というのは実におもしろい場所で森鴎外もこの土地を舞台にして小説を書いている。「護持院原の敵討」という作品である。傑作である。文体がいい。読んでみなはれませ。
神田界隈は、江戸時代以来からもの学びの町であった。世界でも有数の。この野原に、現在の私立大学の源流があるのである。今でも神田界隈で多くの学生を集めて颯爽としている私学も多い。明治大学、法政大学、中央大学、東京理科大学、日本大学、共立女子大学、専修大学等々の有名大学が神田に源流をもっていて、目白押しである。
また神田は武道の町でもあった。かの有名な千葉周作の剣道場「神田於玉ヶ池」道場もここにあったのだ。文武両道を地で行っている。何故か。江戸には多くの武士階級がいたからであり、その伝統を神田はひいているのである。武士階級はなにをさておき、学問をしなければならなかった。それだけ安定していた時代でもあったからである。さらに武士のたしなみとしての武道もである。
そういう土地である。明治5年には、神田界隈でも私塾が60いくつあったというから壮観である。ほとんどが漢学塾であるが、洋学塾もあり、なかなかのものであった。
夏目漱石も神田の小学校に入っている。錦華小学校である。東京では有数のいわゆる「いい小学校」であった。漱石はこの小学校に入りたくて、今でいう越境入学をしている。牛込からのである。
漱石は錦華小学校のあと、府立一中という今の日比谷高校に入学して、2年で中退している。漢学の素養を磨くために、二松学舎という私塾で勉強している。今の二松学舎大学である。しかし、漱石はここも2年あまりで去っている。その後、英語を学びたくて、神田の駿河台にあった英語塾成立学舎に入学して基礎を作った。そして18歳で大学予備門(後の旧制第一高等学校)に合格するのである。神田一橋にあった。漱石は、下宿を神田猿楽町において通った。
大学予備門では正岡子規と同級生であったのは有名である。子規は共立学校で英語を学んでいる。神田淡路町にあった学校である。子規も漱石も英語を学んで後の旧制第一高等学校に入っていく。奇縁であろう。ちなみに、子規が学んだ共立学校は高橋是清が仲間と一緒に作った学校である。子規が上京してきたころには、民家の古屋で、2階が寄宿舎で下が教室であったという。高橋是清は大学予備校の英語教師であったのだから、明治はおもしろい。その後、この共立学校は日暮里の開成高校になっていった。
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以上のようなことを神田に行くといろいろと感じてしまうのである。
かつて、奥羽山脈の麓の町米沢で、熊と相撲をとり、野原を駆け巡っていたときに、神田のようなすばらしい町があることは知らなかった。しかし、生涯にたった一回の中学校の修学旅行で東京に来たときに、オレはこの町に憧憬してしまたのである。
そう・・・「シマッタ」のである。
それでオレはオシマイになったのだよん。
わはははっははっははっははは。
『イノシシから田畑を守る おもしろ生態とかしこい防ぎ方』江口祐輔 sciencebook.blog110.fc2.com/blog-entry-112… ←著者さん説得慣れしてる、イノシシ愛にあふれてる。それに加えてわかりやすいイラスト!なにより、イノシシ無関係な人にも面白い読み物になってるのがすごい。近所に猪います?
悪女の深情け・・・・?
ピロリ菌の薬を呑んで、我が胃袋から退散してほしいと思ったので、治療をしていた。その結果... blog.goo.ne.jp/tym943/e/00243…
今年は哀しみが二倍になってしまうなぁ~
まだ帰らないけど。 goo.gl/11255C