いろいろ個人的な事情はおありだろう・・
親密度というのを考えることがある。
ここのところずっと考えている「未練」というやつである。ぐだぐだといつまでも、断ち切れないというのが未練である。そこで離婚ということをさらに考えた。
昨日在籍大学から帰ってきたのだが、家に到着する前に、gymに寄ったのだ。中国語講座があったので、夕方も6時を過ぎたのだが、今週は目一杯講義を受けたり、別の大学で自分の授業をしたりしていたので疲れてしまったからである。そうなのだ。疲れた時は逆に身体を鍛えるに限る。そしてサウナである。だから、クルマで寄ったのである。
で、ウオーキングマシーンに乗って歩き始めた。むろんテレビをつけて。そしたら「離婚式」というのを発明した知恵者がいて、かなり繁盛しているのだということを紹介していたのだ。これはこれは、目の付け所がシャープですなと思いながら、半分呆れ、半分同情しながら見ていた。さらに、オレだってこの危険性がないわけではない、古いおつきあいの女房殿に捨てられないようにしなくちゃ、クワバラ・クワバラと一人でつぶやきながら見ていたのである。決して他人事ではない。さらに、離婚される方はそれぞれ事情というものを抱えているのだから、一概に一般化して良いだの悪いだのとはいえない。云っちゃならない問題である。しかしである。こういう商売が成り立つということに、まずはびっくりしたのである。
「裂人」というのもいた。結婚式に「仲人」というのがあるように、二人の間を裂く役割の人物である。「さこうど」と発音するのだそうだ。
離婚式は、おごそかに行われていた。
新婦ならぬ旧婦はナミダを流していた。
やっぱり「未練」があるのである。ここが日本人のいいところであり、欠点でもあるのである。なんでだろうと思った。甘えがあるからか?それとも西洋文化でいうところの愛が欠如していたからか?
一昨日「アナと雪の女王」を見たときも、デイズニーらしく、最後は「愛の物語」でしめくくっていた。しかし、あの物語には、裏側に恐怖がある。アナが、結局は騙されるのであるけれども、婚約者のナントカ王子というのと結婚をするというのが物語のBaseにあって、これも愛であるのかということを考えてしまったからだ。西洋文化の愛は、憎しみと同居しているような気がするのだけれども、いかがなものだろうか。
だから未練の無いドライな人間関係の方がいいのだということも、オレは言い切れないと考える。なんでもかんでもドライでいいのかと思うからである。
捨てたい、いなくなってほしいと感じる人間は確かにこの世の中にたくさんいる。オレなんかも、たくさんの方々にそう思われて生きてきたと思っている。タブン。ご迷惑をおかけしてきたからである。意識していなくても、意識しても、そういう場面設定はたくさんあったと思う。だから大切にしているのである。人間関係を。
基本として、そういうものが無いと、ドライな人間関係だけでは寂しいではないかと思うのだ。だからオレもまた「未練」たっぷりな人間なのだ。さばさばしていないのである。人間関係を引きずる典型的な「未練がましい」人間なのである。ただし、ある時点で未練を切ってしまう。オレの場合は。それは儀式をもってして、ある瞬間からこの人間関係は終わりにしなくちゃならないと思ったら、即実行する。
しかたの無いときはあるのである。
居酒屋で、一人ぽつねんと飲むのもいいだろう。素敵なバーでマスターとしみじみ語りあうのもいいだろう。そもそも、そんな体験はもうすることができないからだが。
アルコールが嫌いになったので。(どーも、ウソっぽいなぁ・・・)。
いや、違う。そんなものに使えるお金がないのである。生涯教育という趣味のために使っていたほうがいいからである。
しみったれた、年金生活者でありますから。
わはははっはははである。
じゃぁねぇ!