と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

ウチと未練ということ(留学生に学んだ日本人像)

2014年05月28日 21時07分34秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

未練がましいけどねぇ~

 

 

ウチの会社がね~

ウチの学校は・・・

ウチはお金がなくてねぇ

これまで何度も聞いてきた語が「ウチ」である。

なんでこういう語を使うのであろうか。そんなことを思ったことは限りなくある。一丁前の紳士でも使う。私的関係で使う場合が多いと思う。そして、感情表現の多い場合でも使う。そういう機会が多いと思う。

ウチという語は、ソトの反対概念である。ソトというのは、社会性を伴う場合である。あるいは客観的に表現を必要とする場合に内在する観念であって、用いられる語が異なってくる。日本人はそういう使い分けの言語の名人である。

世間体というのが日本人の行動を左右するからである。日本人には世間体というのが「神」に等しい価値観の根源であるからである。他者に笑われないようにせよということが、本当に基盤にあると思わざるを得ないからだ。

あるいは人に迷惑をかけないようにせよとも教わってきた。親に。

それはそれで結構なことであった。

しかしである。ウチの概念というのに縛られていると、いろいろと問題が起きる。

それは、子ども時代の「ウチ概念」のもたらす欠点があるからである。

甘えということで、日本人の幼児達は、母親にそれこそウチ概念のオンパレードで育ってきているからである。家族の中で、子どもが親に接する態度というのは、ウチの概念の中で発揮されている行動である。まるっきりそうである。甘えに甘えて、育っていくのが日本人である。小さい子どもが、小学校に入って学校の先生に甘えているのも、家庭でそうやって育ってきているからである。

アメリカの子ども達は、日本の子ども達と比べて甘えの期間が短い。学校は家庭的な空間とは考えられないそうである。大学生ともなれば、親元から離れて独立を志向する。大学もよくしたもので学生寮が完備している。ウチから通学するのは少ないそうである。さらにアルバイトで学費を稼ぐ学生も多いから、経済的にも自立しようとする。

非常に興味深いことである。

 

事例を一つあげよう。

それは日本の母親の育児である。

日本の母親は会話よりも、なだめ、抱いて、感情豊かに育てる。なにもそれが悪いと云っているのではない。それはそれで結構である。問題にしたいのは、日本の母親は言語的手段にあまり出ないということなのである。育児の基本にそういうのがあるような気がする。

言語的手段にいくのがアメリカ型である。会話が成り立っている。母親と幼児の間に。

日本の幼児は、大体が受け身で、言語的な手段で母親に訴えずに、噛みついたり、非言語的な手段で親に訴える。これはオレの孫もそうだった。オレも噛みつかれた。(^0^)

日本の母親は常時自分の子に接している。抱っこが明らかに多い。用もないのに抱っこしている。ま、それはそれでいいだろう。しかし、できるだけ関係性を希薄にしているように見えるアメリカ型の子育てもまた興味がある。母乳の使用率も日本の方が高い。母乳で育てると健康になるという説もあるくらいである。

非常に東西で違った文化があるものである。

甘えということは、非言語的な関係性からきているのであろうが、日本人の特性を考える上で面白いものであると思う。

「未練」という語がある。

恋人が別れる。あるいは諦めきれないということで使われるのだろうか。時には、犯罪まで起きることがあって、これもまた日本人特有の現象なのではあるまいか。

なぜそんなことが起きるのであろうか。それは日本人というのは、ウチの論理に支配されていて、ソトにある存在、あるいはソトの人間というものに耐えきれないと思うのである。だから、日本人はどうしても、気配りをし、配慮をし、他者への思いやりを行う。これは日本人以外には見られない態度である。昨日親切にしてやったから、感謝の言葉がほしいと思うのが日本人で、だからこそ簡単なあいさつをおこなう。人間関係を破損したくないからである。

ところが、外国人はこういうのが無い。かなりドライである。東洋人でも例外なくドライである。

「未練」という語をもってしてもそうである。中国語に「未練」というのは無い。存在しない。あっても意味が違う。中国語では「まだ下手だ」というのが「未練」の意味であって、未練という感覚はレベルの差こそあれ、日本人の方が囚われ過ぎているような気がしてならない。アメリカ人も中国人も、韓国人も割合ドライである。「グッバイ」という語は本当にグッドな別れ方であるのだ。つまり「未練」ということは、別れに際して、日本人は儀式を必要としていて、けっこうぐたぐたと思い悩むのである。

昨日まで親しかった、あるいは友人と思ってきた人が、今日は冷酷だったと感じて思い悩むのが日本人である。これが、アメリカ人とか、中国人とか、韓国人だとあっけらかんである。昨日は昨日。今日は今日である。

なにもそれだけがいいと礼賛しているのではない。基層にあるのが、「自分は自分」「君の期待に添うために生きているのではない」というのが、日本人以外の文化にはあると感じるからである。

バイブルもそうである。旧約のロトの妻のことである。悪徳の町であるソドムとゴモラの町を振り返ってはならないと神に命じられていたのに、つい振り返ってしまって塩の柱となってしまったという話は、「自分の過去に未練を持つな」という端的な表現である。キリスト者は、神あるいはイエスとの関係性が基本にあるから、少なくとも人間との関係性においては「未練」というものが無いとオレは思っている。たしかに、キリスト者は、基盤がちがっているような気がする。だからある日突然信者がいなくなっても、教会に来なくなっても未練がましく追っかけては来ない。来なくてもいつでも迎える用意があるからであろう。バイブルにもそういうことが書いてある。

文化が違うのである。

日本人の好きな語に「ご縁」というのがある。これもまたアメリカ人とか、中国人とか、韓国人には無い語である。オレの一番好きな語であるが、留学生に聞いても知らないと云う。

ご縁は、人間の作意で変更することはできない。縁を人間関係とするのならば、宿命性、偶然性というご縁の持つ性質からは離反していく。人間の知を超えた関係性であって、コントロールできない関係性である。これはウチの理論である。生まれた時から、ウチの関係性で育っているから、成長したら、今更ソトの世界には行けなくなるからである。

日本人の信仰というか宗教というのが、このウチの論理でできている。祖先崇拝という思想である。ウチの祖先には、たとえ死んでもウチの中にいてほしいのである。それが霊的信仰と結びついて日本人特有の土着の信仰になっているでのはあるまいか。たいへんに面白い傾向があるものである。

留学生の多い大学で、3年間学んで気がついてしまったことの一つである。幸か不幸かわからんのだけれども。

オレも、案外ドライになってきたのかも~~~~~♬


わははっはははっはは。

 

(^_^)ノ""""


 

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去年の記事 意識してきたこと

2014年05月28日 20時01分14秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
 
学会での活動をこの頃から
 終バスでしたちょっと夕方になって暗くてピントが・・・ 「未来から贈られたチャンスを受け止めて生きる」・・・いいなぁ。レヴィー・ストロースですよ。...
 

 

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大事なのは、毎日確実に書くことである。workなのである。

2014年05月28日 16時27分28秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

午前中に集中講義を拝聴してから、論文のことである先生にご指導をいただいていた。
午後からは、論文を書いていた。院生室である。三年目となると知らない院生ばかりである。

ピッチを上げなくてはならない。今日でA4サイズで232枚になった。さ、これで今日は帰る。大事なのは、毎日確実に書くことである。workなのである。仕事。仕事だと思えば楽しい。ふふふふふふふふ。

16:24である。

これから家に帰ってgymに行く。昨日行けなかったので。

夜もまたご多忙である。

論文書きをするのである。

余生は、郷土史で生きていくつもりですと、今日の先生にも申し上げたからである。何かになろうなんておこがましいからだ。

マジである。真剣に生きていると楽しいもんですなぁ~。(ホントか?)

道楽で大学院に行っているんでしょ!と、女房ドノに叱られているけどね~。

 

 

わはははははっははは。

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5月27日(火)のつぶやき

2014年05月28日 05時35分05秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

能「百万」のチケットを送っていただいた

昨日、興福寺から手紙をいただいた。能の「百万」(国立能楽堂、7月19日11時30分開場)のチケットを送っていただいた。むろん有料... goo.gl/91r0qS


本物?「カッパの手足」公開 都城島津家に伝わるミイラ化した2本 6月22日まで公開しています(SankeiBiz編集部)sankeibiz.jp/compliance/new… #news #宮崎 #都城 #カッパ

と~ま君さんがリツイート | RT

魅惑のコスチューム:バレエ・リュス展の会場は六本木の国立新美術館です。先ほどのツイートで抜けてました。失礼しました。

と~ま君さんがリツイート | RT

子どもと目線を同じにして対等に話をして下さい。大人は皆、上から物を言い過ぎます。そして、世の中は生きる価値があると感じてもらえるように、大人が努力しましょう。

と~ま君さんがリツイート | RT

平和は、ことばを語ることが出来る能力として生起する。-全体性と無限-

と~ま君さんがリツイート | RT

親ロ派はロシア軍の介入を当てにしていたのだろうけど、ロシアはクリミアの割譲とNATOへの非加入が取り付けられればいいので、所詮は捨石だろう。 --- ウクライナ東部ドネツク、交戦で40人死亡=市長

と~ま君さんがリツイート | RT

若者が感じる「人生の自由」の国際比較。日本は窮屈だ…。 pic.twitter.com/WgW8m9mWg6

と~ま君さんがリツイート | RT

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システムということ

2014年05月28日 05時34分06秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

気がついたら国家が崩壊していたという歴史は亜細亜にいくらでも

 

 

誰でも、今現在生きているこの社会のシステムというものを崩壊すると思って生きている人はいないだろう。気がついたら国家が崩壊していたという歴史は亜細亜にいくらでも見られる。国土は何千年もあったけれども、政体はその都度くるくる変わってきたという国家はたくさんあるからである。

しかし、どの国家にあっても、当該国民はしぶとく生きている。日本という国家は、世界でも希有な崩壊したことのない国である。シンガポールという国家と違って、水も食料も全面的にカネで買っている国家ではない。さらに、日本という国は世界ナンバーワンの債権国家であって、目に見えない資金が大衆の側に眠っている国家でもある。自然環境も豊かであって、これを金銭Baseに変換したら、2000兆円はくだらないだろうとされている。綺麗な空気もそうである。これだけ青空が綺麗な国はないだろう。

このシステムという言葉は不思議なもので、例えば、通学している大学が倒産するとは誰も思っていないのと同じで、日本国で流通している「円」が明日崩壊するとは誰も考えていないだろうと推測する。しかし、システムというのは実は危うい。人が作ったものだからだ。

大学の歴史だって、明治維新からである。たかだか100年ちょっとである。これが永久に続くとは誰も思っていないだろう。だから、ナニナニ大学出身と云っても、その大学の卒業証書が100年たったらただの紙くずになる可能性は非常に大きいと思うのである。永久に存在する組織はないからである。システムも同様である。永久にあるシステムはないからである。

大学倒産というのはあり得ない話ではない。倒産ではないが、法科大学院だって、募集停止の大学がだんだんとじわじわと出てきた。今日のインターネットでは看護師の資格を母国で取得して、日本で資格試験を受けて合格して、日本で働いている外国の看護師の方々が出てきたという記事があった。これもまた看護師が不足しているからといって、急遽それに対応したシステムを作った日本のある意味「スキマ」をねらった知恵者の対応である。見事なものであると思う。薬剤師もそうである。不足しているからと、システムを構築する。医師もそうだ。医師不足が唱えられると、即新しいシステムを作る。

だから、弁護士もそうだったのだろう。法科大学院を作った経過をじっと見ていると、ニーズという名目のもと、一気にシステムを作らざるを得なかったというものが見え隠れする。

簡単な算数の問題レベルである。

つまり、ニーズを満たしたら、あとは不要になってしまうという問題を見過ごしているのではあるまいかと思うからである。

ニーズというものに振り回されなかったのが福沢諭吉である。たいしたものである。世間は戦争をしているのに、平気で慶應義塾で授業をしていたのだから、ある意味「覚者」である。学校というものの本質を理解していたと思う。戦争であっても学問をやるという精神は、国家という変わり得るシステムとは異次元の世界で機能している精神である。流れてきた砲弾に当たって死ぬかも知れないという恐怖がない。そういう精神性は、恐ろしく強固である。こんな学校があろうか。

だから福沢は、明治維新の英雄の中では傑出していた人物であると思うのだ。他大学でも創立者として個人名が挙げられている大学は多いが、福沢ほどの大器はいない。残念ながら、他の方々は小粒である。ちょっと勉強ができたという程度でしかない。ま、そこまで云ったら叱られるが。(ごめんよ~)

 

昨日は、あちこち出かけてしまった。

駄文は書いていない。今日在籍大学で目一杯書いてくるつもりである。それがオレのシステムであるからである。「趣味」と言い換えてもいいくらいだ。

わははっははっはは。

 

じゃぁね~!

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/