未練がましいけどねぇ~
ウチの会社がね~
ウチの学校は・・・
ウチはお金がなくてねぇ
これまで何度も聞いてきた語が「ウチ」である。
なんでこういう語を使うのであろうか。そんなことを思ったことは限りなくある。一丁前の紳士でも使う。私的関係で使う場合が多いと思う。そして、感情表現の多い場合でも使う。そういう機会が多いと思う。
ウチという語は、ソトの反対概念である。ソトというのは、社会性を伴う場合である。あるいは客観的に表現を必要とする場合に内在する観念であって、用いられる語が異なってくる。日本人はそういう使い分けの言語の名人である。
世間体というのが日本人の行動を左右するからである。日本人には世間体というのが「神」に等しい価値観の根源であるからである。他者に笑われないようにせよということが、本当に基盤にあると思わざるを得ないからだ。
あるいは人に迷惑をかけないようにせよとも教わってきた。親に。
それはそれで結構なことであった。
しかしである。ウチの概念というのに縛られていると、いろいろと問題が起きる。
それは、子ども時代の「ウチ概念」のもたらす欠点があるからである。
甘えということで、日本人の幼児達は、母親にそれこそウチ概念のオンパレードで育ってきているからである。家族の中で、子どもが親に接する態度というのは、ウチの概念の中で発揮されている行動である。まるっきりそうである。甘えに甘えて、育っていくのが日本人である。小さい子どもが、小学校に入って学校の先生に甘えているのも、家庭でそうやって育ってきているからである。
アメリカの子ども達は、日本の子ども達と比べて甘えの期間が短い。学校は家庭的な空間とは考えられないそうである。大学生ともなれば、親元から離れて独立を志向する。大学もよくしたもので学生寮が完備している。ウチから通学するのは少ないそうである。さらにアルバイトで学費を稼ぐ学生も多いから、経済的にも自立しようとする。
非常に興味深いことである。
事例を一つあげよう。
それは日本の母親の育児である。
日本の母親は会話よりも、なだめ、抱いて、感情豊かに育てる。なにもそれが悪いと云っているのではない。それはそれで結構である。問題にしたいのは、日本の母親は言語的手段にあまり出ないということなのである。育児の基本にそういうのがあるような気がする。
言語的手段にいくのがアメリカ型である。会話が成り立っている。母親と幼児の間に。
日本の幼児は、大体が受け身で、言語的な手段で母親に訴えずに、噛みついたり、非言語的な手段で親に訴える。これはオレの孫もそうだった。オレも噛みつかれた。(^0^)
日本の母親は常時自分の子に接している。抱っこが明らかに多い。用もないのに抱っこしている。ま、それはそれでいいだろう。しかし、できるだけ関係性を希薄にしているように見えるアメリカ型の子育てもまた興味がある。母乳の使用率も日本の方が高い。母乳で育てると健康になるという説もあるくらいである。
非常に東西で違った文化があるものである。
甘えということは、非言語的な関係性からきているのであろうが、日本人の特性を考える上で面白いものであると思う。
「未練」という語がある。
恋人が別れる。あるいは諦めきれないということで使われるのだろうか。時には、犯罪まで起きることがあって、これもまた日本人特有の現象なのではあるまいか。
なぜそんなことが起きるのであろうか。それは日本人というのは、ウチの論理に支配されていて、ソトにある存在、あるいはソトの人間というものに耐えきれないと思うのである。だから、日本人はどうしても、気配りをし、配慮をし、他者への思いやりを行う。これは日本人以外には見られない態度である。昨日親切にしてやったから、感謝の言葉がほしいと思うのが日本人で、だからこそ簡単なあいさつをおこなう。人間関係を破損したくないからである。
ところが、外国人はこういうのが無い。かなりドライである。東洋人でも例外なくドライである。
「未練」という語をもってしてもそうである。中国語に「未練」というのは無い。存在しない。あっても意味が違う。中国語では「まだ下手だ」というのが「未練」の意味であって、未練という感覚はレベルの差こそあれ、日本人の方が囚われ過ぎているような気がしてならない。アメリカ人も中国人も、韓国人も割合ドライである。「グッバイ」という語は本当にグッドな別れ方であるのだ。つまり「未練」ということは、別れに際して、日本人は儀式を必要としていて、けっこうぐたぐたと思い悩むのである。
昨日まで親しかった、あるいは友人と思ってきた人が、今日は冷酷だったと感じて思い悩むのが日本人である。これが、アメリカ人とか、中国人とか、韓国人だとあっけらかんである。昨日は昨日。今日は今日である。
なにもそれだけがいいと礼賛しているのではない。基層にあるのが、「自分は自分」「君の期待に添うために生きているのではない」というのが、日本人以外の文化にはあると感じるからである。
バイブルもそうである。旧約のロトの妻のことである。悪徳の町であるソドムとゴモラの町を振り返ってはならないと神に命じられていたのに、つい振り返ってしまって塩の柱となってしまったという話は、「自分の過去に未練を持つな」という端的な表現である。キリスト者は、神あるいはイエスとの関係性が基本にあるから、少なくとも人間との関係性においては「未練」というものが無いとオレは思っている。たしかに、キリスト者は、基盤がちがっているような気がする。だからある日突然信者がいなくなっても、教会に来なくなっても未練がましく追っかけては来ない。来なくてもいつでも迎える用意があるからであろう。バイブルにもそういうことが書いてある。
文化が違うのである。
日本人の好きな語に「ご縁」というのがある。これもまたアメリカ人とか、中国人とか、韓国人には無い語である。オレの一番好きな語であるが、留学生に聞いても知らないと云う。
ご縁は、人間の作意で変更することはできない。縁を人間関係とするのならば、宿命性、偶然性というご縁の持つ性質からは離反していく。人間の知を超えた関係性であって、コントロールできない関係性である。これはウチの理論である。生まれた時から、ウチの関係性で育っているから、成長したら、今更ソトの世界には行けなくなるからである。
日本人の信仰というか宗教というのが、このウチの論理でできている。祖先崇拝という思想である。ウチの祖先には、たとえ死んでもウチの中にいてほしいのである。それが霊的信仰と結びついて日本人特有の土着の信仰になっているでのはあるまいか。たいへんに面白い傾向があるものである。
留学生の多い大学で、3年間学んで気がついてしまったことの一つである。幸か不幸かわからんのだけれども。
オレも、案外ドライになってきたのかも~~~~~♬
わははっはははっはは。
(^_^)ノ""""