能「百万」のチケットを送っていただいた
昨日、興福寺から手紙をいただいた。能の「百万」(国立能楽堂、7月19日11時30分開場)のチケットを送っていただいた。むろん有料である。「百万」はまだホンモノを見たことがなかったから、感激している。CDで音声だけは聞いたことがあった。我が子と生き別れてしまった母親の苦悩を物語った能である。ある意味、こういう話に弱いのであるが、それに目蓮救母伝説もまた似たような母子物語である。こういうのは、人類共通の好みなのではないのだろうか。「瞼の母」もそうである。母親には、弱いのである。特にGuyは。だから優しくされると、ころりと参ってしまうのだ。男なんて単純明快。馬鹿みたいなもんである。あ、馬鹿は余計か。そりゃぁ、おめぇだけだろうと云われるなぁ~。
昨日の講義で、先生が第一人称の「僕」を、第二人称でも使う例を云われていた。赤ちゃんのときに、母親が我が子に「僕ちゃん~~~~」とか使うのがその例である。しかし、女の子には使わない。何でだろうかということになった。おもしろいものである。そういえば、オレも息子には云ったことがあった。しかし、長女には第一人称で使ったことはなかった。「ぼくのおじょ~ちゃん」「わたしちゃ~ん」とか使うオヤジアはいないだろうから。
これもまた「百万」と一緒で、母と息子だから成り立つものなのであろうか。
「百万」の舞台になっている興福寺はオレの探究対象である。興福寺で教えている唯識学をやりたくて、迷路のようなこんな世界に迷いこんだのだ。そして、とうとう興福寺まで行って寺院の関係者に聞いてしまったのだ。結論は、基礎のところを学ぶのだって、出家して8年かかるとのことだった。やめとけということだろう。苦行である。一介の高校教師ふぜいではできそうもない相談だったよん。わははっははは。
だから謙虚にやっていくしかないのである。
退職してから肩書きがまったく無くなったので、気楽である。さらに、アルバイトでちょこちょこやっているが、ソンな肩書きは恥ずかしくて人に言えたものではない。だから、オレの名刺は、郷土史の会員という肩書きをトップに持ってきている。もう関係ないのである。以前何をしていたかなんて。つまり、現在なにをしているのかということが大事であって、孫の子守でもなんでもいいのである。むしろ孫の子守の方がオレは大事だと思っているのだ。誇りうることだと思っている。名刺に、「職業はおじ~いちゃん」と書いて配ったこともある。さすがに、これは友人に注意されたからやめた。
そんな程度である。
さ、今日も大学に行って、講義を受ける。全部で3時間である。ちょいとくたびれますなぁ。
夜は、塾である。
またねぇ~。
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