聖は、民衆に支持されるために、笑いを多用して「今昔物語集」のような仏教説話集を原史料にして説経をしたのではあるまいか。そうでなければ、一見異常とも見える出来事や事件・事故を取り上げて、最後では教訓話にしているのではあるが、たくましい智恵に満ちた編者の配慮が見え隠れしているのが、仏教説話譚でもある。
そこで、異常な出来事と仏教説話について左記に述べてみたい。
一つの異常な性格の物語を語ろうとするものが、仏教説話には多くある。そもそも、日常生活の中で異常な出来事というのは多くあって、報道で取り上げられて筆者も含めた民衆の関心の高い出来事である。ただ単に仏教の教訓を垂れたり、教義・教説を説法するというのであれば、それを語る僧自身には興味があっても、聞く側にいる民衆の支持は得られない。つまり、仏教説話にも文学性がないと聞く耳をもたれないということになる可能性は高い。事実をそのままに語る、あるいは記録だけであるならなば、現代であっても無味乾燥な文字の記録だけであって、文学性がなければ興味を持たれないということである。しかもそれは異常であればあるほど惹かれるものがあるというのが、一般的特性であろう。
ただ単に意外性のみ、驚異感だけであってもならない。語るものの人間観のようなものが、つまり登場してくる人物たちの煩悩や、愛情、迷いというようなものを捉えようとしている態度が説話集を語る側になければ、民衆の支持は存在しないことになる。つまり、世間に流布している世間話程度の噂話もどきが民衆は好きなのであって、ある物語から即刻教えを垂れるものでは、とっつきにくいということになる。このことは現代にあっても同様の傾向があって、今も昔も変わらないということになるのであろう。・・・・・・・・・
ナンテ雑文を書いていたら、この「異常」ってオイラのことだと、ハタと気がついてしまったよん。
じじいになって、現役大学生やっているなんて、「異常そのもの」だよ。なんも自慢する必要もねぇし、そんなことやっちゃいけねぇ、いけねぇ。そもそも、自慢するために大学生になったんではないからだ。そもそも内容的に、自慢できるようなことをやっているわけでもないからである。
ダメだったらいつでも撤退するという、この「異常性」こそが、オイラの「おかしみ」なのである。
そうなのだ。
そう思って行動することである。
さ、千葉市へ出かける。
退職***の会である。
あまり気が進まないのだが。
遠いし。
スーツなんか久しぶりである。
ま、いいか。
それにしてもこんなきつい服をよう着ていたもんだ。
太ったせいもあるか。
今朝、ダッシュで雑文書きをしていたが、ノルマは終わらなかった。
225だけ。
夜、やろう。
生涯学習に、締め切りはないからなぁ~。
じゃぁ・・・行ってきます。