禿げ頭の向こう側には
「禿げ頭の向こう側には、若者が想像しているよりも多くの至福がある」
というのはアメリカの随筆家であるローガン・スミス氏の言葉である。どうです?笑っちまうでしょうねぇ。オイラもこうなるまでは、じじいになったらそんなに幸福な時は、あまりないだろうと思って覚悟していたのであるよん。マジに。
しかしである。
これはこういうことでもあると思うのである。それは、「お先にどうぞ」の精神であるということである。なに、「お先にどうぞ、死んじゃってください」というのではない。そんなことを申し上げたら、血気盛んなせーねん、しゅくじょたちに叱られてしまう。
そうじゃなくて、米沢興譲館の精神である。興譲とは、儒学者細井平洲先生(オイラの母校の初代校長、ちなみに300年前の先生)がつけたとかいう言葉で、譲を起こすということである。譲とは、「譲る」ということであり、まさに「お先にどうぞ」の精神である。
なに、今日はそんなことを言いたいのではない。
「オレは、じじいではない」
「まだまだわけ~モンには、まけねぇぞ」
というような高齢者の気概を示している言葉っちゅうのがこれであろうと思うからである。ハゲているのに、まだまだ娑婆っ気があって、色気むんむんで、わけぇおなごにモテたいという実に馬鹿馬鹿しい妄想を抱いているのは、要らざる力にみなぎっているってぇもんである。
若い世代に負けたくないっていうのはわかる。
わかるが、それはオノレの老いから目をそらしているだけである。結果的にはムリをして、病気になってしまう。周囲に迷惑をかけてしまう。
心を若くするっていうのは、実に大切なことである。それはそれで大いにわかる。しかし、体力だけは正直である。
そうなのだ。もう荷を降ろすべきなのだ。「がんばらなくてもいい」のである。それこそ老いの特権である。少なからずがんばってきたのだから。
若い世代から、思いやりで、席を譲ってもらったり、かわいそうにと同情されたら素直に受け取ればいいのである。オイラなんか、東京でずいぶん親切にしていただく。電車しかり、エレベーターしかり。建物のドアすら美女に開けていただいたことも数限りなくある。
やせ我慢なんかしない。意地も張らない。
若い世代に対抗意識を燃やしてなんになろうか。年齢相応に生きればいいのである。悠然としていればいいのだ。誰にも相手にされていないのだから。
だから、「ありがとう存じます」「シェーシェ」「サンキュウ」を大切にしているのだ。
ムリしてはアカン。
ムリをしない自然体が一番である。
柔道だって、自然体が一番強いのである。
生涯学習で大学に通っているが、これもそう。ムリはしない。学位も、卒業もお先にどうぞと云っている。周囲のクラスメイトたちに。
大学や、師匠におおいにご迷惑をおかけしているからである。若い世代には夢がある。これから活躍していただかなくちゃアカン。
オレはそういう方々の邪魔だけはしちゃならんのである。
そういふ若い世代の成長を見ているだけで、「至福の時」なのである。
わははっははっははっははっは
(^_^)ノ””””