20140920 大相撲秋場所7日目 勢vs逸ノ城 勢 逸ノ城の連勝阻止
相撲取りの勢という力士に感心した
在籍大学の方は比較的楽ちんな一日を過ごしている。今日だけはである。珍しく午後から授業がなかったので。時間は楽であるが、しかし、内容がみっちりである。つまり、課題をたくさんいただいたからである。師匠にである。日本一の碩学であると、日頃から尊敬している師匠である。ゴミみたいなオイラの駄文ではあるが、100枚近くを訂正しなくてはならぬ。マイッタな。しょうがないか。今日からまたまたやるべきことがたくさんである。こいつを幸せと云わずシテなんというんだろうかねぇ(^0^)
やはりオイラの能力がないっていうのは、間違っていない。だったらフンドシを締め直して、もう一度チャレンジである。
昨日の相撲で勢という相撲取りがいいことを云っていた。
「一日、一日を大切にして稽古をして、相撲を取ります。結果はそれからついてきますので」ということをである。
なかなかの台詞である。
一日、一日、たとえゴミのような駄文であっても、蟻の如く、亀のごとくやるしかない。オレの場合は、地位も名誉も関係ない。ただの生涯学習者である。
熾烈な競争社会からは放り出されてしまった、単なるじじいである。若い方々の熾烈極まりない競争社会を、遠くからじっと見ているだけの観客である。相手にされないというのは、当然である。
もともと、ゆったりと高齢化社会を生きているだけである。
なんだか思い出すなぁ~♪
オレの愛した、老犬「ジョン」のことを。17歳で死んでいったけど、あれは純粋の紀州犬で、気位も高く、格闘となると最も得意で、オレにまで噛みついてきたっけ。
そういう元気いっぱい、闘志満々のわんこであったけれども、高齢化してからは、妙に、飼い主のオレに(^_-)-☆wをしてきたっけ。悟ったふりをしていたっけなぁ。
ホントは、手抜きをしていたんだろう。
疲れることはやらねぇよんって。
それもまた生きる力でありました。
わははっははっははは。
自主的に道を歩むことは、必ず危険がつきまといます。私がシュタイナーから学んだ事が一つあるとすれば、それは彼が自分の道を歩む時に示す、いわば信じ難いほどの無頓着さであったと言わざるをえません。時にそれは無分別に思えるほどでした。彼は運命が彼の行く手に用意するものを受け入れたのです。
前に桐光学園で中高生に話をしたときにはフロアから立ち上がった高校生が「先生がおっしゃった通り、資本主義の時代がもうすぐ終わるという見通しに僕も同意するのですが」と話し出しました。高校生は侮り難いです。
中高生には「これからは激動の時代に入って、みなさんの両親や教師が知っているキャリアパスは崩れてゆくので、自力で生きる道を探しましょうね」というお話をします。
私がものを書く場合には―擬古文調や、ある種の誇張を行わずに―現代語から、今なお生きている言葉を選び出そうとします。色や音楽の場合も、そうです。そして、この部分を、なんども強調しようとするのです。もちろん、慎重にやりますが。 『ファンタジー神話と現代』
「これから生きてゆくということは、未知の事態にぶつかるということであり、その連続であり、とまどいつづけることでもあろう。人はそういう不安な自己を超えようと手段を講ずる。個人が体験したことから知恵を摘出するだけでは、未来はあまりにも険しすぎる」
(宮城谷昌光『奇貨居くべし』)
少し、柔道もやろうと思う。ジャンル別の趣味である。あるいはジャンル別の人間関係である。ジャンル別のお友達である。Facebookでお友達やっているような感覚でいいのだ、と思う。あまりしんどくない... goo.gl/amnumk
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