いいことをTwitterで知った
森 薫 @mori_irom · 9月27日
自分がアウトプットしたものが、ある人にとって学びの強い動機になっていたことを知って、驚くと同時にとても嬉しかった。そしてそのアウトプットは特に思い入れの強いものではなかったから、ああ、やはりアウトプットすること自体に意味があるんだと改めて思った。価値付けは、ひとに任せればいい。
Twitterに上記のような書き込みがあった。
本当にいいことを書いてくださったものである。感謝した。生涯学習は、まさに森氏の云われるとおりである。「学びの強い動機」をいただいて、それをありがたく受けることである。でないと、一人でやっているからめげる時が来る。来たら、どうやって立ち直るかということでは、通学生にはちょっとかなわない。
特に、仕事をしながら生涯学習をやってきたから、その点は実にシビアであった。今、現在オノレのやっていることが、セイカイなのか、間違っているのかよくわからないからである。だから、通学させていただいていることがありがたいのである。その場でご指導をいただけるからである。
オイラと同年の男性が、京都にある大学の大学院を受験した。一昨日である。たいしたものである。この大兄は、修士のときに同級生であったから、なおのこと感心しているのである。意欲と、動機をいただいている。圧倒的にこちらがである。もっとも、オイラのくだらないブログでは、なんの価値もない。価値もないけど、今日の森氏のTwitterにはたまげた。
「そのアウトプットは特に思い入れの強いものではなかったから、ああ、やはりアウトプットすること自体に意味があるんだと改めて思った。価値付けは、ひとに任せればいい。」
ここの部分である。
「価値があるかないか」なんてことは、「ひとに任せればいい」という一言は、実にそうである。実に良き言葉である。ともすると、オノレだけのことを考えたり、他者と比較したりして、悩んだり、苦しんだりしているのがオイラだけど、そんなのどーでもいいことなんだなぁ。悩むのは、オノレのやっていることが、実にすばらしいことであり、世のため、人のためになっていて、それこそ自称「価値ある」ことをやっていると自慢しているようなものである。
クワバラ、クワバラである。
ちょっと道を外れそうになっていたからである。生涯学習にあるまじきことを考えていたからである。つまり、オイラもまた成果主義者になりかかっていたからである。あまりにも、オノレに拘り過ぎていたからである。
そりゃ目標を持って努力することは尊い。それまで否定するつもりはない。なにかに成りたいと努力なされることは、社会の発展のためには貴重なことである。
しかし、それは若い世代に限っているということを忘れてはならないのである。生涯学習は、若い世代の邪魔をしてはアカンのである。これから伸びようとしている方々をひたすら応援させていただくことが、オノレの使命でもあると思う。だから、去るときは去るしかないのである。
価値は他者が判断するもの。
まことにそうである。
まことに。
柔道の創立者である嘉納治五郎が、「精力善用」「自他共栄」ということを云われた。まさにこれである。特に自他共栄である。自他の共栄のためには、オノレが去らねばならないこともあり得るのである。てめぇのことだけを考えていると、碌な死に方をしないと、オイラは思っている。
もっともあれだ。
精力善用ということの方が大事かもなぁ~。
生涯学習だのと気取っていて、オノレの力をちっとも「善用」していないからである。
マジに。
(*´∀`*)