書ける神の降臨をひたすら待っているしかないなぁ~♬
現在の大学のことは書かないことにした。当たり障りのない日常生活のみ書くことにした。単純に云えば、おもしろおかしく書くことに飽きたのである。そういうことにしよう。オノレの学力に問題があるだけで、なんの意図もないが、それだけである。教えていただいているのだから、それが仁義である。ただし、記事自体は、非公開のカテゴリに保存してある。いつか復活することはあり得るのだが。
生涯学習の仲間たちは、インターネットで、レポートをどれだけ書いたとか、科目のこと、スクーリングのこと、先生がたの情報とか、いろいろとお互いに連絡しあっているんだけど、今の大学には必要が無いからである。社会人学生もいるけど、交流がない。オレの不徳の致すところである。
(_ _ )/ハンセイ
しかし、オレは、44年前に東京のとあるつまらねぇ大学に学生でいたのだけれども、あまりまともな学部生ではなかったから、かなり学部時代は勉強以外のことで苦労した。そうなのだ。苦学生であったから、カネを稼がなくちゃ生きていけなかったし、仕事でも人間関係でも苦労した。そんなあふぉ~で、純粋な貧乏人だった。だから、成績も悪かった。勉強やってる暇がなかった。その反動で、じじいになってからは、勉強しているんだけど。ふうううむ。愚痴は、もうやめとこう。オレごときが、勉強のことなんぞ書けるわけもない。そもそも劣等生であったから。高校時代も、学部生時代も。能力不足である、能力不足。
そうなのだ。最近論文が書けない。先週の金曜日から一枚も書けない。書かせない鬼がオレにとりついてしまったよん(^_^)。ブログではない。ブログは今でも書ける。事実、こうやって打鍵している。問題は論文である。
量はいくらでも書けると思う。しかし、質がついていかない。構想が論文らしくないのだ。つまり、研究をするような「器」ではないのである。これは自分でもよくわかる。やっぱり素人なのである。今まで通教でも何度も経験してきたことである。書けない鬼がとりつくとなかなかそこから脱却できない。ひたすら「書ける神の降臨」を待っているしかないのだ。昨日も、夜遅くまでマトリックスを作って、構想メモを作っていた。借りてきた専門書を**冊も並べて、カードを作っていた。
むむむむむ。しかし、できない。
こうなると深刻である。
興福寺で云われたことが身にしみる。
唯識学をやってみたいと修士のときに思ったので、退職した年の夏に奈良の興福寺に行ってみたのだ。60歳の夏に。回答は、ムリ、ムリ、出家しても8年かかるということをご指導いただいた。
この時に、なんという道にさ迷い込んだのだろうと思った。
無明の人である。マイッタね。マイッタ。
やはり若い人の邪魔をしてはアカンのだよ。
末期高齢者は、若い人と競ってはならない。最初から勝負はついているではないか。こっちはじじいなのである。おとなしくしていればよかったのである。じじいはじじいらしく。
教育というのは、「断念させることも重要な機能の一つ」である。
こいつを思い出したよん。
絶世の美女を口説こうとしても、ムリではないか。こっちは禿げているのでっせ。貧乏だし。条件が間違っていたのだよ。
わはっははっははっはははは。
さ、そろそろ来年どうするか考えないとアカンですなぁ。
マジに。