瀬戸内寂聴bot @jyakucho_bot 5時間前
どんなに好きでも最後は別れるんです。どちらかが先に死にます。人に逢うということは必ず別れるということです。別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。
毎朝、Twitterを覗いてから、やおら原稿書きに入る。この瀬戸内寂聴先生のつぶやきを拾ってくださっている方のは、なかなかのもので楽しみにしているのだが、今朝もそのとおりだなぁと思った。
別離は来る。確かにくる。死ぬことで、である。当然だ。遅かれ早かれ来る。それがいつだか誰も分かっていないから、平気な顔をして生きていられるというものである。昨日、gymに二回行ったので、ずっとテレビを見ながら歩いたり、自転車に乗ったりしていたら、なんと安楽死の問題を取り上げていた。アメリカの女性外科医で脳腫瘍になっていて、11月1日のご主人の誕生日に安楽死をするのだそうである。愛する夫と、家族に囲まれて静かに死ぬのだそうである。
ううううううううむ。
うなった。それでいいのかね。耐えがたい病気だとそうなるのかねぇ。人生万般、ほんとうにいろいろな人がおられるものである。しかし、愛する夫と家族に見守られてというのもわかるような気がした。なかなか云えない台詞である。たぶん、宗教的な素養があるから云える台詞なんだろうと思った。
このように愛深い女性でも、別れはあるのだ。どんなに立派な方でも死ぬときは死ななくてはならない。時間が早いか、遅いかということである。
だから今現在を大切にして生きていきたい。
先日、大先輩で連れ合いを50代で亡くされた方とちょっとだけ話をした。
ある会合でお先に失礼しなくてはならなかったからである。
そしたら、「大事にしなさいよ」とのたまわれた。
は?
と思わず聞き返した。
「奥様だよ、奥様」
・・・・・・・・・・・・・・・・・
大事にしているつもりだけど、事実今年の誕生日には欧州漫談旅行にも行ったし、と言い返そうとして止めた。
大先輩は、一人暮らしである。
そういうことである。
いなくなったら、もうおしまいなのである。
すべての人間関係がそうだ。
在籍大学もあと五ヶ月。クラスメイトや、先生方ともお別れである。
教えさせていただいている大学の方も永遠はない。来年の保証はない。
塾もそう。講師として能力がないと判断されたら去るしかない。
いつまでも続く人間関係なんてない。一切の関係性は、否定と共に存在しているだけである。本質的な意味において。
だからこそ、「別れるために逢うんです。だから逢った人が大切なのです。」という瀬戸内寂聴先生のこの言葉は重みがある。
逢っている今現在が大事だということなんでしょうなぁ~。
しみじみとした朝を迎えたよ。
さ、居住地の図書館に行く。大図書館である。そんじょそこらの地方国立大学より、蔵書数でも相当なものだからだ。県立図書館で、相互にリンクしているから、コンピュータでいつでも借りられる。しかも、オレの居住地の大図書館は、文学・思想・哲学・歴史が専門である。これはありがたい。ぜー金を払っているのだから、利用しないともったいない。
木曜日だからgymは休みだ。しかし、夜、塾がある。こっちも楽しみである。一昨日なんか、「東大英語が五分でわかる本」というなかなかの参考書を、このあたりでは一番の進学校の高校三年生と一緒にやっていた。五分でわかるというのは冗談みたいな話であったが、勉強方法が五分でわかるというのなら、確かにそうだった。異色の参考書なのである。むろん、オレの私有物である。なかなか英語の勉強法だけなら、オレはわかるからである。ちっとも話せないけど。
こういう生徒たちとも、あと五ヶ月で別れるのである。
最後は、オレ一人である。
「後ろ姿のしぐれていくか」である。山頭火である。CMの有名な歌手のようにかっこよく去りたいものである。ほら、NHKの龍馬伝で主役をやったあのイケメンの歌手のように。
ムリだな。
わははっははっははっははは。