狂騒社会だって、永遠には続かないのだねぇ
千葉市は都会かということを考えた。昨日、郷土史の会で、文化講座と古文書講座を聴いてきたからである。つまり、千葉市にいたのである。久しぶりに電車で行ったから、時間があった。時間があると、いろいろ考えることができる。これはありがたい。直近では、来年どうするかという問題を考えていた。
Aがクリアできたら→B
Aがダメだったら、→C
それとも、あっと驚く爲五郎で(古いなぁ・・・)一気にzという選択肢もある。
そんなつまらないことを考えていた。電車の窓外の風景を見ながらである。つまり、ぼーっとしていたのである。もう狂騒(じゃなくて)競争社会からは離れてしまったのであるから、つまらないことを考えてもいいのである。キーワードになるのは、同じようなことをしないっていうことだなぁとしみじみ思う。
たとえば、生涯学習だといっても、究めないことである。その道のトップに躍り出るというのでは、なんもなんも狂騒(競争)社会と変わりないではないか。もう断念して、じじいになったのであるから、何をいまさら川端柳である。ジタバタしないことである。じじいになって生涯学習でノイローゼになっていたら、完全にあふぉーである。マスターできても、できなくてもいいのである。
要するに「行動派」であれということである。
オレのモットーでもある。職業人としての世界にいつまでもしがみついて、それだけの世界で生きていたらオレのお目々を自らふさいでいるようなものである。もったいないではないか。人間関係を自ら狭めて、誰ともクチをきかないで気取っていたら。バカである。そんなのは。新たな人間関係を、友達をいっぱい作って「遊ぶ」ことである。なんでもいいのだ。なんでも。
気取ったらアカン。
でも、そういうのいるんだなぁ。しがみついて、自分だけかしこくて、他人がバカに見えて、誰とも話しもしないっていう輩。体験上。あまりしつこく書くと誰だかばれるからこれくらいにするけど。
オレは、もともとがバカであるから、じじいになってさらにそのバカさ加減が加速しているから、なんにも気にしない。友人関係だって新たな関係をバンバン作っている。楽しい、楽しい。相手にされなければ、それはそれで仕方がない。汝のために生きているのではないからである。オレはオレの爲に生きているからである。(オレから去っていこうと、なにをしようと、他人のことには興味がない。瞬間の、今現在がもっとも重要な時間であって、そこで派生した友人関係や、つきあいというのを大事にしていきたい。長持ちするかしないかは偶然のしからしむるところである。つまりこだわってはいかんということである。
在籍している会社とか、学校とか、組織とか・・・あと何だ?・・・宗教もそうか。思想哲学もそうだな。関わっているものがすべてであると思い込んではならないのだよ。家族だって、永遠ではない。どっちかが死んでしまったら、思い出としては残るが、生きている人間関係は無になる。だからそれなりの割り切りかたをしていないと、つまらなくなる。だから「今」が大切なのである。オレはそう思うことにしているというだけなのだが。大したことではないからだ。
昨日、千葉市の書店をあちこち見てから会場に行ったのであるが、これもまた永遠に続いている書店もない。永遠というのはまったくあり得ない話である。
そして、千葉市に行ったら寄ることにしている定食屋に看板も見ないでふらふらと行ってみたら、なんとそこが廃業していた。ありゃ、マイッタなと思った。それから昼食をどこでとるかとなって、結局ある中華店に入った。ランチだから安く食える。夜だと高そうで、年金生活者のオレには敷居が高そうな店である。しかし、結局其の店に入った。ランチであったから安かった。しかもうまかった。
永遠なる店がないということをしみじみ味わったよん。
これからこの店に通うことになるかもしれないけど。
(;_;)/~~~