ヨガを始めて思ったこと
まったくこのヨガ方面では才能というのか、資質というのか、適性というのかが無いというのが、よーくわかった。まったく、まったく最劣等生である。身体が硬くて話にならないのである。昨日、「教育は断念させることも重要な役割の一つとしてある」とか書いたが、ヨガにもあるだろうなぁ。
ヨガの指導者になりたいというのなら、断念どころか、ヨガの練習自体も無意味である。でも、オレはめげない。最劣等生なんていう言葉は餓鬼のころから言われてきたからである。もう慣れっこになっている。その後もずっと最劣等生という言葉は、現在まで続いている。オレのような最劣等生が教育について語り、講義し、あるいはじじい学生として生きているからいいんだろうと思っている。特に、学校現場に多少なりともいる実力のない学生には自信をつけることができたからである。勉強ができない、進路がない、なにをしたらよいかわからないとか、そういうことで悩んでいる若い人には力になってきたのである。オレ自身が劣等生だから、そういうことで悩んでいる人には応援できるのである。ま、そんな程度でしかないのだが。(^-^)/
つまりはそういうことである。
適性が無いということは、人の上に立って、ヨガをあれこれ指導してみたいということを断念せよ!ということである。そして、そんなことはこれっぽっちも思ったことはないケド。マジにである。そんなことを考えるだけで、神様から笑われる。どんなに愛を説く神様であってもである。
柔道もそうである。指導者になりたいとはこれまで50年の長きにわたって稽古してきたが、まったく考えたこともない。指導と云うより、一緒に遊んでいる感覚である。柔道教室のちびっこたちもオレのことをまったく指導者とは考えていない。ただの遊び友達だというくらいでしかない。ハゲじじいの(^0^)
先日、コンビニで買い物をしたときに、なんだか知らないが、店員の方にエラそうにカネを払っている御仁がいた。オレの前で支払いをしていた。この人、会社名の入っているジャンパーを着ていたので、会社でも、こんな乱暴な感じで他人と接しているのだろうかと思った。おそらく、上司とのクチのききかたはそうではないだろう。慇懃無礼を絵に描いたような話っぷりだろう。ヘェコラ、ヘェコラしているだろうに、立場が違うと威張り出す。人間なんてそんなもんであろうからなぁ。
威張り出すのが、ボンクラの常であるから。
オレ?
ボンクラ以下であるから、まったくイバラネェよん(^0^)
指導者なんていうのもその分野だけで指導者であるというだけで、なにも全人的に優れているから指導者になれるというわけではない。それは間違いがない。ある特定の分野で非常に努力したから指導者として迎え入れられたということであって、すべてが優れているわけではない。イエスだって、ハラの立ったことがあったのだし。
ま、オレのように、特定分野で優れた実績もなにも無いというのは、最初から落選である。だから、「断念させることも教育の重要な役割」と云われても、最初から「断念」させるだけの「希望」とか「目標」とか「願い」が存在しなかったら、断念することもない。そもそもなにも無いからである。最初から「無」であるからねぇ~♬
あ、オレ、髪の毛も無かったよん。
わはははっはははっはははっはは。