ルサンチマンから脱却してどこに行くのかねぇ
昨日の夜はgymが無かったから、風呂に長時間入っていたのである。
目に悪いことはわかっている。当たり前である。新書の「後白河法皇 『絵巻物』の力で武士に勝った帝」(PHP)を読了した。最初から読んでいたわけではない。最後10頁くらいを読了したのである。最初から読んでいたのでは、身体がふやけてしまうからである。当たり前である。
(笑´∀`)
打鍵の方は、1500ほど図書館でやってきた。パソコンは使わない。テキスト入力専門のポメラというのを使っている。最近は。ATOKの辞書がパソコンと一緒のものが使えるから非常に便利である。乾電池で動くからどこでも使える。一番いいのは、インターネットにつながっていないから、めったに来ないメールだの、facebokだの、Twitterだの見る必要も無い。これはありがたい。書くときは、一人で書かないと書けないからで。
いや、話題はそんなことではない。
この新書である。後白河上皇は、好きであるからだ。若い時から、物の怪や、妖怪や、化け物とか好きで、その延長上に後白河上皇がボクの潜在意識にあるからである。好きなものはしょうがない。今様も好きであった上皇であるから、当然のように学部生時代から読ませていただいている。楽しいのである。実に。遊びをせんとやうまれけむという上皇の言葉は、実にいいものである。
非常に私的なことで云っているのだが、物の怪を追究したのが、上皇なのではあるまいか。この時代は、ということもあって、上皇はこのにも興味を持っていて、名著「梁塵秘抄」にはいくらでも出てくる。さらにNetworkというのもあったとこの新書の著者は云っておられて、一遍のような仏教伝道者もこのような文化から出ているとされる。さすがである。
これ以上は書かないが、どうやらボクの考えていたことは、方向性としては間違っていなかったのではあるまいかと思ったのである。
能が白拍子によって舞われることは、そういうNetworkの存在を示しているし、なかなか楽しい時代でもあったのである。NHKの大河ドラマ「平清盛」でも、清盛の母が白拍子であったこと、しかもその父親は白河法皇であったことが前提になっていた。白河法皇も凄い方である。このお二人がいて、中世は理解できるのではないかと楽しくDVDを見ていたのである。
しかしである。
不勉強だなぁと思う。
こればっかりやっているわけにはいかないからである。
新井白石と、平田篤胤の「鬼神論」「鬼神新論」の原文をこの一週間は読んでいたからである。これすら読んでいなかったのか?と嘲笑されることしばしばであるけれども、時間がかかっても、やるしかない。やっていれば、時間のたつことを忘れる。
周囲のくだらない出来事にあれこれ悩まされることもない。つまりルサンチマンからの脱却である。狂騒社会に生きているわけではないからである。組織というものとは、縁を切られたからである。定年で。
ルサンチマンから、脱却して、どこに行くのか。
ニーチェの世界か?
ふふふふふうふふうううううふふふふふ。
(*´∀`*)
ルサンチマン 2 [(フランス) ressentiment]
〔哲〕 ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨。goo辞書より
ルサンチマン [仏 ressentiment]
もともと恨みや憎しみが心の中にこもって鬱屈した状態をいう言葉だが,ニーチェはこれを弱い者への思いやりや自己犠牲を説く平等主義的な道徳の起源を説明するために用いた.彼によればキリスト教道徳や,そこから生まれた近代市民社会のヒューマニズムや人権の思想は,弱者の強者に対する恨みや復讐心を道徳として表した奴隷の道徳なのである.この延長上にある社会主義の思想も,このような奴隷道徳の一部にほかならないと考えられる.ニーチェはこれに対して強者の道徳,貴族的な誇りや勇気を讃える戦士の道徳,君主の道徳を対置した(ニーチェ『道徳の系譜』).しかしこれは結局ファシズムによって利用される結果にもなった.
ー思想の科学研究会「新版哲学・論理用語辞典」より
◎wikiより
後白河天皇(ごしらかわてんのう、大治2年9月11日(1127年10月18日) - 建久3年3月13日(1192年4月26日)、在位:久寿2年7月24日(1155年8月23日) - 保元3年8月11日(1158年9月5日))は平安時代末期の第77代天皇。諱は雅仁(まさひと)。鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟・近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年に亘り院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが、そのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的にも大きな足跡を残した。
人物[編集]
『平治物語』によれば「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と同母兄・崇徳上皇に酷評されていたという。
『台記』仁平3年(1153年)9月23日条によると、関白の藤原忠通が近衛天皇の跡継ぎとして雅仁親王を飛ばして、守仁親王(二条天皇)を即位させる提案を鳥羽法皇に行ったことに対し、父の藤原忠実は「此の事を案ずるに、関白狂へるか。彼の童(守仁)即位せば、又雅仁親王猶ほ在り。親王如しくは政を専らにせん。豈に関白をして執権せしめんや」と雅仁親王の権力志向の強さを指摘している。これは不仲になっていた忠通への悪意を含む発言であった可能性もあるが、後に忠通が院近臣の藤原信頼と争った末に後白河の怒りを買って閉門処分を受けた事実(『兵範記』保元3年4月20日、21日条)を考えると、忠実の予測は当たっていたことになる。
『玉葉』寿永3年(1184年)3月16日条に記された信西の後白河院評は「和漢の間、比類少きの暗主」。その暗君のわずかな徳として「もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ」(一旦やろうと決めたことは人が制止するのも聞かず、必ずやり遂げる)、「自ら聞し食し置く所の事、殊に御忘却なし。年月遷ると雖も心底に忘れ給はず」(一度聞いた事は年月が過ぎても決して忘れない)としている。ただし、これは九条兼実が清原頼業から聞いた話として書きとめたもので、信西が本当にそう言ったかは定かでない。
九条兼実は「鳥羽法皇は普通の君であるが、処分については遺憾であり、すべてを美福門院に与えられた。今の後白河法皇は処分に関する限り遙かに鳥羽法皇より勝れている。人である賢愚など、簡単に評価できないものだ」とし、その死去にあたっては「法皇は度量が広く慈悲深い人柄であられた。仏教に帰依された様子は、そのために国を滅ぼした梁の武帝以上であり、ただ延喜・天暦の古きよき政治の風が失われたのは残念である。いまご逝去の報に接し、天下はみな悲しんでいるが、朝夕法皇の徳に慣れ、法皇の恩によって名利を得た輩はなおさらである」と形式的な悲しみの言葉を使いながらも、仏教帰依を非難し、近臣の悲しみを嘲笑している(『玉葉』建久3年3月13日条)。
後白河院は、源義経の要請に応じて頼朝追討の宣旨を下したが、義経没落後は源頼朝に義経追捕の院宣を下した。さらに、頼朝より奥州藤原氏追討の院宣が願いだされてもこれを拒否し、頼朝が奥州藤原氏を滅ぼした事を知ると事後承諾の形で奥州藤原氏追討の院宣を下している。次から次にあたかも手駒を捨てていくかのごとく武士を利用していったように見える行動から、頼朝に「日本国第一の大天狗」と評された(近年この大天狗の表現は、院近臣の高階泰経を指したのではないかとする説も出ているが、定説ではない[14])。
一旦使い捨てた相手や対立した相手でも、時が過ぎればそれを受け入れる度量も有しており、藤原頼長の子・師長は太政大臣となり、信西の子供達を公卿に取り立て、二条親政派として罰した大炊御門経宗はその後左大臣を20年以上務め、一度は蔑ろにした近衛基通は寵臣となり、一度は流刑にして前代未聞の比叡山攻撃を計画させる原因を作った天台座主・明雲も最後は後白河のために法住寺合戦で討死するほどの親密な関係になっている。
平清盛と対立した後も誕生したばかりの言仁親王の立太子に同意するなど、清盛との和解を図った向きもある。
後白河院は源頼朝追討の宣旨を下した後、高階泰経に「保元以来乱逆が相次ぎ、玉体を全うするためにこのような処置をとってきたが、今後も乱逆が絶えないだろうから治世から身を引きたい」(『玉葉』文治元年10月25日条)と心情を吐露している。しかし他に貴族政権を取りまとめる者がいなかったことも事実であり、最期まで政治の実権を握り続けた。頼朝との悪化した関係は建久元年(1190年)の頼朝上洛により修復され、この時に成立した朝廷と鎌倉幕府の協調関係は、承久の乱まで約30年間保たれることになった。