【海外の反応】世界で最も古い企業は日本の旅館だった!「創業1,310年を迎える山梨の西山温泉慶雲館」
山梨県早川町にある「甲州西山温泉 慶雲館」は豊富な湯量を
誇り、3000メートル級の山々を眺めつつ、源泉掛け流しを楽しめる温泉旅館
【局アナnet】世界一歴史ある温泉旅館のこだわり(山梨)
吾妻連峰の北側標高1300m の秘境・秘湯の温泉宿です。
我が故郷にあります。今度ご一緒しませんか?(^_^)
姥湯温泉 桝形屋
「私」というフィルターは当てにならないことを自覚すべき
私というもの、存在というかなんというか知らないが、こんなに当てにならないものはない。
しみじみそう思う。
だいいち、耳、目、クチ、鼻とかの感覚器官を通して理解したことというのは、あくまで「私」というフィルターを通しているんであって、ものごとの本質とは無縁である。変質している可能性がある。「私」というフィルターを通しているからである。
これは気を付けなくてはならない。物事の本質をつかみ損ねている可能性があるからだ。
例えば、糞尿だって元々はオノレの身体の中にあるものである。あたりめぇだろうと言われるが、事実である。それがいったん身体の外に出ていったら、キタナイとか言われて忌み嫌われる。
唾だってそうだ。あれは、全員オノレのクチの中から出てくる。それでも嫌われる。かわいそうに。もっとも相思相愛の仲ならば、キタナイとは思わないのだろうが。チュ~がそうだろう。経験ないのでわからんケド。わはははっははっはは。
さて、モノというのは、私の感覚器官を通してできているというのである。中国の人々は。だから感覚器官というのは、「私」というものに染まっている。「荘子」という書物に書いてある。受け売りなのだが、この本は実に本質をついている。
苦しい人、悩んでいる人にはぴったりの古典であろう。そう思う。
競争社会で成果しか求められない人には薬のようなものだ。メリットとかデメリットとかの経済の論理そのものでもって生きていかなくちゃならない人にもそうだ。つまり、苦しい人には実にこころ休まる古典である。
なんということはない。
私もまた座右の書にしているからである。
よく知られているように、禅というものも「荘子」を下敷きにしている。禅の「無私」という心境もまた「荘子」の影響がある。
人間の好き嫌いというのも、「私」という感覚器官を通しているから左右される。価値観にも左右される。しかし、「私」とか価値観なんていうものが、信用のおけるものであるかどうか。私は、まったくないと思ってきた。これまでも、これからも。
よく人は、あの人は好きだとか言う。好き嫌いだけで、世の中を渡っていけるようなことも言う人が多い。
そうだろうか。
本当に好き嫌いだけでいいのだろうか。
それだけでいいのなら、私なんか仕事ができなかったと思う。まさに、個々人は千差万別であって、いろいろいるからである。気に入らないとか、嫌いだとかやっていたら、組織が運営できない。個性というものがあるだろうに、そういう初歩的な思考をしていること自体が、社会人として失格である。マジにそう思う。
だからこそ、「私」というフィルターの当てにならないことを自覚すべきであると思う。
好き嫌いとか言っているということは、物事に序列を作っているということでもある。そういうことを拒否してみるべきである。物事に序列はないと考えてみてもバチは当たらない。
一度そういう経験をされてみるがいい。
卑近な例になるが、イケメンとかいうのもふざけた話である。時々、拙ブログでも扱う。たいていは自虐で書いている。イケメンではない私のことをチャチャ入れて書いているのである。イケメンとかに拘っている若いじょせーをある意味バカにしているのかもしれない。
だって、イケメンだって糞尿をオノレの身体に持っているのである。膀胱とか直腸にである。そうでっしゃろ?イケメンの身体から出たら、キタナイものでもキレイになるってか?残念ながら、キタナイものはキタナイである。
爺の私となんもかわらないではないか。
目とか、鼻とか、耳とか、口のポジュションが違っているだけである。あ、カミの毛はダメだ。ポジュションどころではない。最初から無いのである。つまりハゲだ。これはかなわない。無いものは無い。相手にできない。
状況ということである。
我々はあまりにも状況に左右されすぎる。
しかし、状況は必ず変わる。
永遠に変わらないものなんか無い。地球だって、あちこちと噴火したり、津浪が起きたり、地震があったりする。安定して、不変というのは無い。あり得ない。
つまり状況は変わるのである。
状況とは、現実のことである。
現実というのは不変では無い。
不変でないのならば、現実の状況で起こっていることは、あるいはその出来事の意味も変わってくる。コロコロ変わるのが現実である。そして、状況というのはやり過ごせるのである。だから、なんも悩む必要はない。ある日、ある時に一気に変わっている可能性があるのだ。
ファンタジーの世界であるとすら私は考えている。
状況を固定化して、とらわれてはならない。
会社や組織、あるいは学校(大学や高校)というものが、永遠では無いというのと一緒である。そして、どんなに現実が厳しくても、状況というものは変わるのである。
だから、希望を持って生きていくことが大切になる。世の中は、孔子様や孟子様のような(つまり儒家)規則性だけで成り立っているのではないと思うからである。
そして、希望を持ちつつ、「遊」の精神でもって生きていくことである。「遊」というのは、自在の境地と言ってもいい。時間や空間に縛られない境地のことである。松尾芭蕉や西行、良寛がそういう境地にいたから、憧れるのである。
白川静先生は、「遊」とは、神と人とが一体になった境地だとも言われる。人間的な思惑、計算、打算、分別を超えたところにあるものを指しているのである。
だから、私はいつまでもふざけたゴミのようなブログを書いてなんら恥じることなく生きていられるのである。
あれ?
今日もまたくだらないことを延々と書いてしまった。
許されよ。
文章トレーニングと惚け防止のためである。
今日は、午後からまた千葉市に行かなくちゃならない。前の職業で一緒に仕事をした方々と会うからである。そういう関係は、これしかない。交通安全の仕事をしていたからである。そして、夕方の5時から宴会がある。むろん私は呑めない。呑めないからクルマで行く。
そうなのである。
状況が変わってしまったからである。
アルコールが嫌いになってしまったのだ。
?
じゃぁなくて、doctorから禁じられているからである。この状況が変化するかどうかは分からない。できればこのままがいい。そうするとアルコールとおバカキャラのミニスカオネーチャンとは死ぬまでご縁が無くなるからである。好都合というもんじゃな。
わはっはははっはっはははっはははっは。
(^_^)ノ””””
だが、なるようにしかならぬ。わたしは自分も、大日本帝国も何かスソ鉢の壁のようなところを少しずつずるずる下って行っているような気がしてならないのだった。ひょっとすると、このおれと大日本帝国とはひどく似ているのかもしれないぞ。-帝国軍隊における学習・序
奈良国立博物館 大将軍神半跏像:京都・大将軍八神社に伝来したと伝わる。平安後期の制作で、穏やかな表現が目立つ。今日、大将軍八神社は八坂神社の祭神である牛頭天王と同体の素戔嗚尊を主神としているが、その前身として祀られていたといわれる。 pic.twitter.com/ZbhUQpW3yy
■「沈黙とは、体と精神と魂が完璧な釣りあいをとっていることである。自己を保っている人は、葉の一枚たりとも動かぬ木のように、小波ひとつ立たない輝く池のように、つねに静かで、実存のあらしに揺すぶられることがない。」
500RT:【すごいw】「動物達の帰宅ラッシュ」開催、駆け抜けるヒツジやアルパカたち
news.livedoor.com/article/detail…
栃木の那須りんどう湖レイクビューの動物が住まいの牧舎に戻る様子を見学できるイベント。なかなか見応え… pic.twitter.com/RshD4P5mtk
昨夕北東から不審な雲が発生して南西に流れていました。それを撮っていて気づくと、その雲を取り巻いて透明感ある円が。東に白い雲が広がっていたのでくっきりと境ができていました。円が虹っぽくも。 pic.twitter.com/bvUVcDAe49
バンコクから関空に到着!
これから国内線に乗り換えて羽田!
案の定税関で捕まる!
「新宿区にお住まいで?」
「はい」
「バンコクー東京便ありますよね?」
「A380に乗りたくて」
「あー…(察し)」
さあ出勤だ! pic.twitter.com/tzTSlX5WSM
“@shojinzawa” RT @fukusima88 @hayano @reemayufu 福島地域版だからほかの地区の人は知らないでしょうけど。 pic.twitter.com/5zoMaNuLUk
(原子力エネルギー利用による)"大惨事"が起こると、責任者はいつも、これが最後であり、このようなことはもう二度と起こらないと断言するのだ。それはこれまでもそうだったし、これからもそうあり続けるだろう。このすてばちな見ないふりの理由は、経済と金融システムにある。 『エンデのメモ箱』
田樂師(デンガクシ)の演奏種目の中、古くからあつて、今に傳へて居る重要な「中門口(チユウモングチ)」と言ふのは、此「門入り」の儀の藝術化したものなのであつた
物質は光の反射で見えているのだから、みんな光っています。よくオーラが見えるという人がいるけれど、ほんとうは光って見えることじゃないくて、物質の透明感なんだろうな、って思う。強いものはみんな宝石のようにきれい。
「お前は運が悪いんや。けど、人間も運が悪いのがうじゃうじゃしとる。お前ばかりやない」とおれは子牛の死体に言った。これは人間を殺せる理屈に紙一重というような気がした。そしておれたちは人殺しを命じられている兵隊というものである。-死ぬ奴
必要とされていなければ、「去る」ことである
昨日も良き一日であった。
完全休養日にした。土曜日に、郷土史の会で一日千葉市にいたから、若干疲れた。椅子出しと受付だけ... goo.gl/XMhaKg
「人間でも殺されまわっておるんや。もっとむごい殺され方さえしとるんや。お前は人間にこきつかわれて、殺されて食われるように、生きてこさされたもんや。致し方がない。死ぬより仕様(しゃあ)ないんやで」とおれは子牛に言った。それから、斧をふり上げて子牛の額をゴツンと叩いた。-死ぬ奴
【南都北嶺】南都は興福寺を、北嶺は延暦寺を指す。藤原氏の氏寺である興福寺は摂関政治以降勢力を拡大し、東大寺を除く大寺の別当は興福寺僧が独占した。一方、延暦寺は大乗戒壇設置以降南都との間に確執が生まれ、朝廷への強訴を通じて牽制し合った。 pic.twitter.com/pb4gBjC8UZ
我が師の主催公演、本日一般発売開始です。宜しくお願い致します。
第十回 山井綱雄之會
8月29日(土)13時開演 於国立能楽堂
能「道成寺」山井綱雄 ほか
SS席一万二千円、S席一万円、A席八千円、B席七千円、学生席四千円
yamaitsunao.com