2ch 腹がよじれるコピペ
ダジャレ弁当 妻が1年ボケ続けた“だじゃれ弁”がほっこりと話題
読書のことを考えたり、孫と遊んだりしていたので
昨日のお昼前に孫が遊びに来た。
3歳と1歳の男児である。二人とも保育園に行っている。
かわゆいこと限りなし。目の中に入れても痛くないとはこのことである。上の男児から「じいじ」と呼ばれると、ニコニコしながら返事をしているだらしない爺である(^_^)。
お昼に居住地にある中華料理店で大人五人と孫二人で食事をいただきながら、談笑していた。そして、午後からは徹底的に孫と遊んでいた。
夕方日課にしている市営Gymに行った。そして、バイクをやりながら、文庫本を読んでいた。読書について考えながらであった。
どういうことかというと、これまで軽いタッチの小説を毛嫌いしていたが、どうも退職してからあまりにも時間があるので、読むことにしたということである。村上春樹もそうである。軽い小説だと思えばいいのだということに気がついたのだ。あれは、ある意味現代のファンタジーである。だから気負って読むこたぁねぇと思い始めた。おとぎ話である。そう思えばいいのだということである。
定年退職後こそ、いろいろと制約を設けないで、好きなように読書していればいい。
なにもこれから大論文を書いて、研究者になろうとしているのではないからだ。もう終わったのである。そんなことは。
しかしである。
退職したから、面倒くさいというわけで、読書することから撤退してはならない。
一人で過ごすことのできるまたとない時間があるからだ。読書には。そう思い始めたら、体調を崩したのは、かえって好機会であったのかもしれないと思い始めた。読書こそ、高齢になってもできる唯一のことであるからだ。私には。これから死ぬまで何年あるかわからんが。
読書計画を立て直している。
これまで猛烈に民俗芸能学みたいなものを追求していたが、体調を崩して一巻の終りとなったから、計画の見直しをしている。
一年一作者でもいい。私の書庫にはいろいろあるから、かえって楽しいかもしれない。全集がである。いちいちここにはあげないが。
ドストエフスキーももう一度読み直してみるか。
十代後半のときは、あれは麻疹にかかっていたようなものだったからである。今、これから見直しの読書をしてみたら逆に楽しいのかもしれない。つまり若いときに読んでいたのと、定年後に読むのとでは違うからである。
CMで「違いのわかる男」というのがあったが(コーヒーのCMでなかったか)、あれだ。あれ。
だんだん違いがわかるようになってきたからである。つまり固定観念がない。今は。「~~しなければならない」というやつがである。
それに職業も失ってしまった。年金と若干のアルバイトのみである。こういうことになって、かえって世の中を見る目が違ってきたような気がするから、おかしいものだ。
それに開高健とかの一流の文学者でも、なんであんなに雜文で釣りを取り上げていたのかということもわかってきた。なんということはない。開高健ですら、奥さんが怖かったからである。つまり奥さんからの逃避である。現実逃避。
中島敦も、治療のために書いていたのではないかと思うところがあるから、昔のように重々しい作品ばかりありがたがっていることもなくなった。
こっちも老いたのである。
読み手としての老いである。
だから、楽しい。それでいいのではないか。軽いタッチでもって読書してもである。
なんだか、読書イコール勉強とか、読書イコール学問のためとかやっていると、文学作品自体がおもしろくなくなる。研究者を目指しているなら話は別であろう。
爺になったら、爺なりに熱中できる作品があったらそれを楽しみながら読めばいい。それをである。論文を書かなければならないからという理由で読んでいたら、これは苦しい。ま、私だけの問題であるけれども。
むろん強制的に自分を奮い立たせて読む読書も必要である。そういう時期を経ないと話にならない。文学部に入学して、周囲のクラスメイトが話している作者たちを一度も読んだことがないというのでは、これはもっと話にならないから、チャレンジすべきである。それはそれで昔から変わっていないことである。
最近、インターバルトレーニングをやっている。これと同じではないのか。一時間、読書したら、その後は一時間運動をする。これだと、健康にもいい。そういうやり方をしていくしかないのだ。これからの私は。
若い時に嫌いだったから、今も嫌いな文学とか思想であってはならないとしみじみ思う。
荘子だってそうだ。若い時は嫌いだった。ところがである。今は、漢文体系に読書カードをハサミながら、まるでバイブルのように読んでいる。変われば、変わるものである。
爺に生きるチカラを与えてくださるような気がするからである。不思議な思想である。荘子も重々しく考えすぎると、とっつきが悪くなる。
もっと気軽に、軽いタッチで読んでみてもいいのだと思う。
所詮、趣味である。
読書でもって、オノレの人格向上をはかっていきたいと思っても、もう無理である。決まり切った職業人生活をしてきて、それでもって固定化したのだから。だからこそ、退職したら、自由に読めばいいのである。でないと、一生固定化したオノレを背負っていくことになるからだ。
そんなこたぁ御免蒙りたい。
一生、「元****」とか肩書きを背負って生きたくはない。自由自在に老後を過ごしたい。世の中を斜めに見ているとバカにされてもいい。あるいは、拙ブログのような駄文を書き散らして、世の中に害悪を垂れ流していると言われてもいい。読みたい人は読んでくださるだろし、嫌な人は相手にしてくれないだけであろうから。
所詮、そんなもんである。
さっき、孫が帰ってしまった。
寂しいなぁ~。
また夏にくるけど。
動画もたくさん撮った。
それを若い夫婦にDVDで焼いてプレゼントした。
思い出は、かぎりなくある。
孫がかわいいからである。
それだけである。
さ、これから市営のGymに行ってくる。インターバルトレーニングをしてくる。
夜はまた読書である。
これの繰り返しだ。
それでは出かけてきます。
(^_^)ノ””””
どうすりゃいいのか、生涯学習仲間の方々にその具体的な方法を教えていただきたいくらいである
昨日、成東駅前にある退学した大学のインフォメーションセンターで中国語を教えてい... goo.gl/GKV2lz
■「そこに辿り着こうと焦ってはいけない。「そこ」などどこにもないのだから。本当にあるのは「ここ」だけ。今という時に留まれ。体験を慈しめ。一瞬一瞬の不思議に集中せよ。それは美しい風景の中を旅するようなもの。日没ばかり求めていては夜明けを見逃す。」【ブラックウルフ・ジョーンズの言葉】
浮世のことが判らない。判らぬところへ出て行くのが厄介だから、浮世からなるべく離れている。しかし、浮世と交わらねば飯が食えない。そのくらいには浮世と関係がある。-どうなとなれ
あれよあれよとびっくりしたり、恐れたり、よろこんだりすることはあるが、想像力の不足のために、大抵のことは、結局はおのれの身にしまず、忘れ去ってしまうことになっているようだ。-こころならずも・・・
馬乗観音堂十一面千手観音像:広島県にある、標高約500mの馬乗山の山頂の寺院。本尊は50年に一度のみ公開。子授けの観音であるため、全国から子宝を希望する者が多く訪れる。 元首相・宮沢喜一の父もここで参拝したという。 pic.twitter.com/fZyYzFFN9E
生き死にの沙汰がからむと、人の思考ではいかんとも仕難いことばかりだ。そのいかんとも仕難いことの編み物の中におり、編物そのものであるのが俺の生き死にだ。-どうなとなれ
「東大首席弁護士女性 財務省時代のブラックな勤務実態を告白」
・月300時間の残業はザラ
・「コーラ、買ってきて」と、財布を投げつけられたことも
・『君に人権なんかないんだよ』と言われました
getnews.jp/archives/10099…
確かに今どきの感覚ではない。
”世界で最も長寿の湖は、シベリアにあるバイカル湖であり、その年齢はおよそ3000万年といわれている。”科学に佇む書斎 sciencebook.blog110.fc2.com/blog-entry-151… 『ネッシーに学ぶ生態系』花里孝幸
情報過多というのはその社会に赤信号が一杯点滅しているということなのであるらしい。息苦しくてたまらんが、それを見もせぬものには息苦しくも何ともない。精神の皮膚が薄くなると赤信号に目がいって仕方がないもんだ。行動もままならぬ癖にだ。お気の毒さま。-心せかるる
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大学教員が4年間にわたる麻薬注射「廃人になれる気がした」 #ldnews news.livedoor.com/article/detail…「研究上のストレスで不眠が続き、自殺目的で使用したが、死ぬことはできなかった」。大学教員もストレスが多い。