おじいさんの古時計 ザ・サークル TheCircle
おじいさんの古時計による変奏曲 My Grandfather's Clock
驚くほどノリノリなおじいちゃんのダンスに驚くほど無関心な孫
年齢、合わせて220歳である。
今朝、ラジオのニッポン放送を聞いていたらびっくりして飛び起きた。6時のニュースである。新聞にも出ていたから、インターネットから以下に引用してみよう。(産経ニュース:http://www.sankei.com/affairs/news/150609/afr1506090039-n1.html)
>通勤にキセル乗車で懲戒免職 千葉県の高校教諭
千葉県教育委員会は9日、約1年半にわたって通勤の際、キセル乗車を繰り返したとして、県立銚子商業高校の男性教諭(43)を懲戒免職処分とした。県教委によると、教諭は13年10月~ことし5月、千葉市の自宅から高校まで車で通っていると申請していたが、実際には週2~3回、電車を利用。高校の最寄り駅が無人駅のため、自宅の最寄り駅から一駅分だけの回数券を買う方法でキセル乗車を繰り返していた。県教委の聞き取り調査に通勤手当の虚偽申請を「2011年ごろから続けていた」と話したといい、県教委は不正受給の総額は約100万円に上るとみている。千葉県警の鉄道警察隊が5月、駅で教諭から事情を聴いたことで発覚した。
マイッタね。これは。こういうのは、教員OBとしては実に情けない。
以上終わり。終わりだが、もうちょっと書く。
つまりもうコメントのしようがない。一生を棒に振って、しかも懲戒免職処分である。退職金も出ない。これからどうするんだろう。塾業界で拾ってくれるわけもない。まったくどうするんだろうか。まだ若いのに。家族がいたらかわいそうである。
それだけ重要なミッションを抱えているってことだ。教員というのは。
それで、言いたいことがある。
それは「憶測」ということである。こんな報道について、あれこれ「憶測」で書くことはできない。できないからやらない。
しかしである。
世間には「憶測」というのは限りなく多い。良い例が私である(悪い例の見本かもしれないが)。「憶測」でもって、いろいろと揶揄される。つまり、入院したからもう死んじまったという「憶測」があったからである。結構である。もう死んじまったというので、おおいに結構である。どうせ、死んだも同然である。わはははっはははっはははである。
それに結局人間は、100%死ぬのだし。誰だってそういう結論に至るのは見えている。死ぬのかもしれないとは、生きているうちは誰も考えないだけである。だから、病気になると焦る。焦るから道を外してしまう。
そんなことを思うのだ。
昨日、老人大学でいろいろと講義を受けていた。私ら爺婆よりもずっと後輩の講師センセからの講義をありがたく受けていた。専門分野が違うのだから、素直に聞いている。それが礼儀であろうから。
その中で、独居老人のDVDを見ながら、考えさせるというstyleの講義があった。
考えさせるというのは、うがった見方であろう。私がひねくれているからだというご指摘もあろう。そもそも、つくりものとしてのお話である。
内容は、妻を亡くしたある老人の話である。確か、68歳だと思った。人間嫌いで、誰ともつきあわない。団地で一人暮らしをしている偏屈爺である。娘が近くにいて、女の子の孫もいる。そしてだんだんと孤立していく。食事もコンビニ弁当。太極拳のサークルに誘われても、断ってしまう。やることも無いから、全てが面倒くさくて、どんどん状況は悪化していく。そして、ある日突然倒れてしまう。
千葉県の高齢者福祉課で作っているDVDである。
これまた憶測で書いているのだが、あることに誘導しようとしていることは、よ~く理解できた。当然であろう。行政当局は、私ら高齢者をある意味、有効な道に誘導したいということは理解できるし、私ら爺婆もそれをありがたく受容していかなくちゃならない。後輩たちが心配してくれているからである。
独居を防ぎたいという政策あるいは県の行政当局の方針は、本当にありがたいことである。可能ならば、独居老人にはなりたくない。そして、いつまでも生涯学習を継続しながら、良き友とあったかい日向でもって、語りあいたいものである。
独居老人になる可能性は誰でもある。誰でもである。配偶者が先に死んじまったら、そうなる。そもそも配偶者のいない爺婆だって多い。老人大学にはそういう方もおられるからである。ご主人が先に逝ってしまったという方々も、老人大学のクラスメイトにおられるからである。
だから、可能な限り独居老人は防ぎたい。それでも、なるときはなる。運命である。仕方がない。そうなった時にはそうなるしかない。
というようなことを古女房ドノに言ったら「あら、アンタの方が先に逝きますよん」と言われた。わはははっははははっははである。その方が幸せでしょうなぁ。まったく。
バカな会話ばかりしている私の家である。しかし、私の家ではおそらく悲惨なことにはならないだろう。着々と計画してきたとおりに、家族構成を考え、実施してきたからである。詳しいことは書けないが、ある意図のもとにプランを立てて、実行してきた。こういうことの計算だけはできるのである。こんなバカ爺でもである。
さらに、私は憶測で行動しない。
全部事実でもって、判断している。こういうのを固定観念がないというのだそうだ。教育心理学では。聞きかじったことだが。
もっとも、判断材料である新聞記事がデタラメであったら、もうどうしようもないが。巨大新聞のAみたいなことを書かれてしまったら、それこそシマッタ・シマッタであるからだ。
もうちょっと書く。
私が、教員OBだからといってそれこそ憶測でもっていろいろと意見されたり質問されることがある。今でもある。
一番多いのが、エラそうにしているという固定観念からワルクチを言われることである。
もっとも最近は、逆のことを言われるけどねぇ~。「らしくない」という言い方でもって。ホントに教員やっていたのかとも聞かれてしまうからだ。塾のアルバイトもそうだ。国数英だって?よくできるねぇ~とバカにされる。そりゃそうだ。爺の私の顔を見たらそう感じるだろう。私もそう思っているからである。よくできるもんじゃ・・・と自分で自分を褒めてあげたいくらいである。まったく。恥も外聞もないからできるんでしょうなぁ。
そういう世界で生き延びるコツも覚えた。
老人大学で、である。
前歴を一切言わないことである。今は、聞かれてもノーコメントで押し通している。だから実に気楽である。こんなに気楽なことはない。
中国語講座(居住地の方)で一緒になっているある男性がこんなことを言ってきた。昨日、老人大学の旅行クラブ(男性も所属している)の発会式ならびに懇親会があったのだ。しかし、私の方は欠席すると彼に言ってあった。しかし、「どうして出席しないの?」という同じクラブのご婦人に私の代理で答えてくれた。
「この人はねぇ~、大酒呑みで、つまりは酒の呑みすぎでとうとう愚かにも身体を悪くしたんだよ~」って。大笑いをした。まったくその通りであるからだ。しかも、その男性、私の呑み友達でもあったからである。どっちもどっちなのだ。
また、いつも老人大学で隣合わせに座っている男性がいる。彼は、大型オートバイの免許を60歳すぎてから取得したナイスガイである(ナイスガイではなくてナイスジジ)。
彼といつもつまらない冗談を言いあいながら講義を聴いているのだが、昨日ある雑誌を渡された。オートバイで行くツーリングの雑誌である。今度一緒にツーリングに行かないか?と誘われてしまった。しかし、彼のはカワサキのW650である。でかいし、パワーが半端ではない。私は、買うならスーパーカブしか考えていないから当然ついて行けない。行けないどころか、置いてきぼりになっちまう。
彼は、古文書をやっている私にこうも言った。「英語ならわかるが、古文書はどうもねぇ」と。英語ならわかるんである。たいしたものだ。しかもバイクもやる。
楽しい爺婆たちである。
こういう老後を過ごせたのであろうに。冒頭に引用した懲戒免職の教員さんは、どうするんかね。これからを。
これも憶測でしか無いケドね。
今日は(「も」か・・・)完全に暇なので、これから九十九里浜にできたという海の駅に行ってみる。
私と、古女房ドノと義母の三人である。年齢、合わせて220歳である。
楽しいことかぎりなし。
じゃぁねぇ~。
(^_^)ノ””””
芸術上の偉大な天才で数学の能力をもつものがいなかったことは、経験のうえからも立証されている。この両方の才能に同時に傑出したものなどは一人もいなかった。
まだまだ続く生涯学習の道である。私もである。私もいろいろとやっていくかない。タダ生きているだけでは申し訳ないではないか。
>日本を代表するコメディアン萩本欽一さんが駒澤... goo.gl/rUxPtL
高幡不動尊金剛寺不動明王像:真言宗智山派別格本山。高幡不動の通称で知られる。平安時代に円仁が清和天皇の勅願により開山したのが始まりとされる。江戸時代、真言宗関東十一檀林として、多くの学僧を輩出した。関東三大不動の一つ。あじさい寺とも。 pic.twitter.com/89KyHrNxt3
だが、なるようにしかならぬ。わたしは自分も、大日本帝国も何かスソ鉢の壁のようなところを少しずつずるずる下って行っているような気がしてならないのだった。ひょっとすると、このおれと大日本帝国とはひどく似ているのかもしれないぞ。-帝国軍隊における学習・序
【山口・給食にふぐ】フグが特産品のため、小中学校の給食にフグ雑炊や汁物、フグのから揚げなどの料理が登場する。給食に使用されるのはマフグやサバフグといった比較的安価なふぐで原形を留めて出されることは少ない。クジラやアンコウも給食に出る。 pic.twitter.com/EQ737YQJkA
■「私の子供たちよ、人生の道を歩んでいるときには、けっして他人を傷つけてはいけないし、悲しい思いをさせてもいけない。反対に、おまえが他人を幸福にできるようなときには、いつでもそのようにしなさい。」【ウィネバゴ族インディアンの伝承のことばより】
何をおいても、人間には、人生のすべてを立派に解決して、万物の霊長である資格の発揮を完全にしてくれる頼もしい潜勢力というものが、自分自身の生命の内奥に厳として実在しているという自覚意識に目覚めなければだめである。 bit.ly/LDAiXO
そしてその根本思想は、人間中心的な考えから生じる見栄やエゴや我執からのとらわれを脱却し、無為自然に天地自然に添ってすべての生命、存在とともに生かされることが、人間にとって、最も自然で幸せな生き方であるという考え方です。
トルコの政局不安、チャンス到来かも on.wsj.com/1eZxSJc 不透明感あふれる結果となったトルコの総選挙。市場が不透明感を嫌うのは周知の通りだが、政局不安がチャンスをもたらす可能性も 図:トルコリラの対ドル相場 pic.twitter.com/6WIcGZjYGu
【天国】フィジー「海の上に浮かぶバー」が美しすぎる…!
news.livedoor.com/article/detail…
ボートが宙に浮いたように見えるほど透き通った海。ここではイタリアン料理と世界中のお酒を振舞っています。 pic.twitter.com/lGl7GnKyJJ
皆さんが褒めるには、私が『モモ』を書いたのは、現代社会で誰もが忙しくて「時間」の持てない存在になったことに注意を喚起させるためだった。あるいは、人々のストレス状態、世の中の慌ただしさを警告するためだった、というのです。けれども、いや、いや、ちょっと違います、とは言いたい。『語る』
あべこべの世の中。――ある思想家が我々に不愉快な命題を打ち立てると、彼は一層手酷く批判される、しかしながら彼の命題が我々に愉快な時にそうする方が、一層道理に適っているのだろうに。-人間的、あまりに人間的-
安養院紅頗梨色阿弥陀如来像:東京都の寺院で、当尊は江戸時代の制作。大日如来が阿弥陀如来と一体化(大日即阿弥陀論)したのが紅頗梨色阿弥陀で、名称になっている紅頗梨色というのは紅色(西方極楽浄土を表す)のことである。 pic.twitter.com/ul3PXFZTwQ
というように、勉強の快感というのは、既知のものと既知のものがつながる瞬間なのですねー。だからこそ初期は暗記や詰め込みが大切だし、そういう知識がある程度自分の頭に染み込んで馴染むような、物理的な時間が必要なのだと思います。
例えば「仏教」というのは当時(紀元前五世紀のインド)大変なイノベーションだったわけです。「信仰」というものを体系化した。生と死をきれいに説明して、人の祈りに意味を付与した。そういう革新的な「新しい視点の提供」が、『枕草子』にも『徒然草』にもあったわけですな。
『枕草子』が三次元的なカメラワークを駆使して文章に奥行きと彩りを与えているのに対して、『徒然草』は人間の心理的な親近感を利用しているんですね。このクラスになると、現代のエッセイで使われている技巧がほぼ詰まっている…というよりも、この時に成立した技法を今も使っているわけですね。
『枕草子』の醍醐味のひとつに「視点の多彩さ」があって、情景描写にしてもズームイン・アウトを自在に駆使する技巧が詰まっているんだけど、『徒然草』というのは「話法の多彩さ」で勝負してる面があるんですね。真理を語る預言者のように超然と書いたと思ったら、読者の耳に囁きかけるように書く。
近くにいる相手ならば面と向かって意思を伝えればいいけど、遠く離れているならば伝令が意思を伝えるものだね。同じ事柄について、主人と相手の両方に喜びや怒りを共有させるためには、伝令は事実について余計な感情を挟まずに、ありのままを伝えるしかない。『荘子』(人間世篇)
サラリーマン川柳 2015発表!第一生命のサラ川、優秀作品 goo.gl/Jod97i
おもしろシルバー川柳がリアルすぎて、笑っていいのか悩む件www goo.gl/MBV6F2