逆に、あまり「絆」「きずな」「キズナ」「kizuna」と言われてもねぇ~クタビレテしまうから
孤独が好きである。
元来つきあいとか、宴会とか、そういう人間関係を伴うものが不得意である(ウソをツケと言われるかもしれないが)。マジにそうである。じっとしていて、読書をするのが一番の楽しみであるからだ。なにも自分の部屋だけで読書しているのではない。風呂でも、トイレでも読書する。もっともそういう場所ではあまりカタイ本は持参しない。推理小説とかファンタジーが多い。それに、リビングでも読む。
だから、放っておいて欲しいというのが基本にある。
しかし、邪魔立てをするものがある。家族である。あまり熱を入れて読書したり、ゴミのような文章を書いていると、干渉してくる。当然である。動かないからである。動かないと私の場合は病気になる。否、なったのであった。去年の11月2日。忘れもしない日である。一生涯忘れないだろう、この日は。入院させられた日であるからだ。エコノミークラス症候群である。
これを簡単に考えていた。だからナメキッテいた。飛行機に頻繁に乗る人しかならないものだと思っていた。
ところがおっとどっこい。簡単になってしまったのである。私がである。六〇過ぎまで一錠の薬すら飲んだことのない健康なじーさまがである。まったく健康なんて、夢まぼろしのようなものである。だから「本来健康だということはあり得ない」話であるとしか思えないのである。
本来、「人間は不健康が基本」であって、それを食事とか運動とか、医療でもって健康の方向に無理矢理進路変更をしているのではないかと思った方がわかりやすい。「本来不健康だから」すなわち努力するのである。これ、非常にわかりやすい考え方だとしみじみ思うのだが。
そうかそうなのだと気がついてから、私も遅まきながら無理矢理健康に興味関心を持ってきたのである。だから、健康になるために、それこそ病気になるほど、勉強を始めてしまったのである。gymもそうだ。ただし、柔道は健康に良くない。あれは、太る。短時間にかなりの運動をするから、良く無い。つまり無酸素運動である。歯を食いしばって、力む。そうでないとチカラが出ないからである。脱力していて、最大限のパワーなんか出るわけない。柔よく剛を制すというのは、ある程度のパワーがあってこそであって、非力な老人には無理である。私がそれを証明している。だから、最近は柔道教室に行っていない。怖いからだ。もうパワーがないからだ。まったく情けないけど。
だからと言ってはなんだが、孤独がますます好きになった。あまり社交的ではなかったから余計そうなった。老人大学くらいか。いわゆるおつきあいがあるのは。あ、もっとあったな。古文書(二つのグループ)と郷土史の世界か。ま、それはそれでやるしかない。
それでも一人で読書している方が好きである。それを邪魔してくるのが、濃厚な人間関係である。家族が筆頭である。
基本的に放っておいて欲しいというのがある。基本的に。本来は一人でも生きていけるのが人間である。なにも無理して社会的に生きなければならないというものではないだろうに。
だから登校拒否とか、出社拒否というのは理解できるような気がするのである。放っておいてほしいというのが。それをである。学校や教育委員会のせい、会社の管理部門というか総務関係の人間のせいにするっていうのが理解できない。
なんでもかんでも管理が悪い、特に行政が悪いというスタンスはいかがなものかとずっと思ってきたからである。
話は変わるが(いつも突然変わってばかりだけど)、そういうのは、つまり他罰的というのは、基本のところに「人間は明るくなければならない」という基本的認識があるのではないのか。せっかく明るく振る舞っているのに、暗くなるというのはオノレに責任があるのではなくて、他者が悪いっていう寸法である。しかし、明るいっていっても、無駄に明るいという場合もあるのではないか。あるいは無理矢理明るく振る舞っているっていう場合である。いいじゃないか。孤独を愛し、読書が好きで、ものを考えているのが得意だという人もいていいではないか。それを全部が全部、明るくいきいきとして、積極的に働いて、成果を出せと声高に言っている方が異常に見えてしまうのである。無駄に明るいというのはこういうことである。便所の一〇〇ワットである。(もっとも最近はトイレに一〇〇ワットの電球は使わないだろうけど)
なんだか、全部が全部そういう一面的な価値観を押しつけてくるようになったと感じているのだが。それも、あの東日本大震災以降である。「絆」という価値観がそれを物語っているとしか思えないからだ。
こういうのは、日本人特有の性向なのであろう。ある一定方向を向き始めると、全員が同じ方向を見始める。まるでかつての一億玉砕の精神である。危険である。一定方向だけを向けというのでは、共産国家と変わらない。本来いろんな人間がいていいのであって、それでこそ民主国家日本である。こんなくだらないブログなんか書いていられるのも、まさに「鼓腹撃壌」だからである。許容範囲が大きいからである。国家に。だからありがたいものだと思うのである。
よって、あまり「絆」「きずな」「キズナ」「kizuna」と言われるとアレルギーになってしまう。
押しつけがあるからである。
「絆」そのものの価値観というのは大切である。それはそれで大いにすばらしいことである。ただし前提条件がある。それはそういうことを発信してくる方々のこころが清浄であるかどうかということである。しかもその一点にかかっている。相手を支配する道具としての「絆」であったら、そりゃたまらん。
止してくれと言いたくなる。支配されたくないからである。「鼓腹撃壌」であるからだ。こっちは。支配者のことなんか、意識の隅にもないからである。
だから孤独が好きなのである。支配されたくないからである。
ところが、家族も含めて人間は支配したくなる動物のようである。会社もそう。組織もそう。上から目線で、支配をしたがる。
「絆」を言って来る方々もそうである。表面では柔らかに言ってくる。優しそうに言ってくる。でも、それは仮面である。仮面。
ウラになにが隠されているかわかったもんじゃない。そういうことに気をつけていかないと、なんでもかんでもジュンスイなままに理解をしない方がいい。世の中はどうやって動いているのかまったく検討もつかないことが多いからである。大学院もそうだった。どうやって動いているのか、まったくわからなかったからである。こっちも別の大学に関わっているので、経営内容とかいろいろわかってきたけど。ま、今は、大変楽しい時期を過ごさせていただいたと思っているけどね。
そんなことより、孤独がいい。
読書でもしながら、一日を過ごすことである。
どーせ暇なのだから。
わはははっははっはははっはははっは。
(^_^)ノ""""