肘折温泉
離脱したところでオノレを見つめ直してみることも一興
仕事中心主義から離脱できれば、これにこしたことはない。しかし、それをやってしまうと食いはぐれる。食い扶持だけは確保しておかなくてはならない。当たり前である。喰えなくてはどうしようもない。
だから、社会人というのは、我慢しているのである。
このことを忘れて、自分探しだの、生きがいを持つだの、自由業を志すとか、起業を試すとなると、ちょっと待てと思う。
やはりこういう傾向を持っていると、困難な生き方をせざるを得なくなる。
もしかしたら、生きがいというものと関わってくるのであろう。
それはそれでよくわかるような気がする。
なぜか。我が亡父がそうだったからである。若い時から「自分探しだの、生きがいを持つだの、自由業を志すとか、起業を試す」というタイプの人間であったからである。一応、官吏であったから、いわゆるカタイ仕事をしていた。しかし、この亡父の欠点は組織が大嫌いであったということに尽きる。組織で動くことにこころから反発していた。
シベリア抑留を経験したからである。
組織で動いていた軍隊を経験していた。さらにソ連の残虐極まりない、捕虜生活を余儀なくされた。多くの戦友たちの死を経験してきた。つまり、組織というものがどんなに信用できないかということを身をもって知っていたのである。だから、組織が大嫌いであった。
このことは、私も無理からぬことであったと思う。
そして、だんだん私も亡父に似てきたと思うのである。
組織が嫌いだという点において。
だから40歳を過ぎてから、「仕事中心主義」から離れたところに自分の場所を確保するように動いてきた。つまり世間的価値観から逃れていくこと、転落していくことであった。
仕事に呑み込まれていかないようにしたいということである。しかし、なにかしなければ喰えない。だから、距離感を持って仕事を、自分自身を冷静に見ていくしかなかったのである。
それが生涯学習に結びついている。ある意味、自分をどう見つめていくかということである。冷静にである。
一番いいのは、組織に属さないで収入もあり、喰っていくことができればいいと思う。しかし、そんなことは不可能である。イケメンの歌手、タレント、芸人等々いくらでもいる。でも、こういう方々は売れなければ喰っていけない。明日をも知れぬ身である。組織に縛られないけれども、誰も守ってくれない。実に厳しい生き方である。
組織に属さないということは、そういうことである。
そして、私は、組織に属さないでという意味では犯罪者にもなることもできなかった。世間から葬りさられたくもなかったからだ。世間から距離を持っていたいと思ってきたが、まして放っておいて欲しいと思っても、テキトウに関係性は保持しておきたいと考えて生きてきた。つまりキタナイのである。根性がである。
もっとある。
私は、退職後の膨大な時間をクソの役にも立たないゴミ論文の生産に使っていたのである。こんなことがナンになるんだろうと思っていたのである。案の定、ついに論文を書きすぎて、つまりじっとしていて血管がつまってしまった。万事休すであった。もうこれで終わってしまったのである。しょうがないと言えばしょうがない。健康を損ねてシマッタのであるから。メリットがないというのは、まさにこういうことである。デメリットばかりである。
情けないけど、そういう事になってしまった。でもチャラチャラとチャレンジだけはしていくつもりだけどね。(^0^)
あくまでもチャラチャラとである。早朝の一時間くらいなら、できるだろうから。ゴミみたいな論文書きも。
役に立つことは、あるいは自分の得になること、メリットのあることをやらなくなった。権威とはまったく関係のない会合くらいしか出なくなった。老人大学の会合くらいしか出なくなった。だいいち、酒を飲んで人間関係を良好にして、それから何をしようというのかねぇ~と思うからである。
☆
もっとある。
肉体が醜くくなる。醜い肉体になる。若い時には、それがわからなかった。肉体が永遠ではなかったのである。肉体は年と共に衰える。しょうがないのである。どうしてもそうなるのだ。
経験上である。
だって、もう私の頭髪は無い。まるっきり無い。逆三角形であったまるでボディビルダーのようだった見事な肉体は、もう消え去ってしまった。あれだけ綺麗な私の瞳は、濁ってしまった。世間のミットモない出来事を見過ぎてしまって、濁りに濁ってしまったのである。マジに。残念ながら。(^-^)/
ごまかしようがないのである。
加齢とは巷間人生の充実だという方もおられるが、こと肉体に関してはウソである。醜くなるだけである。
ウソが蔓延しているのだ。
だから、そういう表面的な価値観から、一度オノレを見つめ直してみることである。
それが、私の「半グレ」である。価値観を異なるものにしていこうということである。それが生涯学習を志す私の本心である。
生涯学習なんて意味がないとどんなに言われても、私はもう「半グレ」なのだから、関係ないのである。これまでの価値観は持っていないからである。思えば、37年も仕事人としてよくやってきたもんじゃ。それは知らず知らず、一定の、あるいは限定された価値観から逃れようがなかったということを意味している。仕事を通じて得たものは、大きい。それはそれで感謝している。それでも被った価値観の変更(余儀なくされた)被害はある。それは否定できないことである。
しかし、一旦それから離脱したところでオノレを見つめ直してみることも一興である。そうなのだ。まさに「一興」なのである。楽しみで生きているからである。楽しみが無くなったら、人生それで終わりである。
(^-^)/
それでは、また!
ヾ(@⌒―⌒@)ノ
ぐれよう、グレヨウ、gureyou!半グレでもいいから。ジジイになったら。 goo.gl/jEV1P9
萬福寺ラゴラ尊者:当寺は中国福建省出身の隠元隆琦が江戸時代に開基した、宇治にある黄檗宗大本山。当尊は「心の中には常にお釈迦さまがいらっしゃる」ということを胸の中を開けて見せている様子を表す。 pic.twitter.com/rPaYMdkAyN
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【大阪・モータープール】大阪府を中心とした関西地方で使われる言葉で駐車場を意味する。もとは太平洋戦争後に進駐軍や公用車の待機場所をさした言葉だが、この地域は民間の車に対しても使っている。一般的に米語で駐車場はパーキングロットという。 pic.twitter.com/iw5JsgMifF
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【長野・霜月祭り】<12月>遠山郷の複数の神社にて行われる湯立ての祭事。四タイプに分かれるが、いづれも面を被った神や人物が登場し、禰宜と共に軽快に舞い、境内に湯をかけて清めてまわる。映画「千と千尋の神隠し」のアイデアの元となった。 pic.twitter.com/QVpkJIfrWp
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人の名誉とは公器であり、独り占めすべきものではない。仁義は先王の旅籠であり、ふさわしいときにとどまればよく、長居は無用。絶えず仁義のことばかりでいると、それは災いとしかなりえない。『荘子』(天運篇)
Retweeted 荘周(荘子と呼ぶ人も) (@Zhuangzishuo):
人の名誉とは公器であり、独り占めすべきものではない。仁義は先王の旅籠であり、ふさわしいときにとどまればよく、長居は無用。絶えず仁義のことばかりでいると、それは災いとしかなりえない。『荘子』(天運篇)
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その手に魂が込められなければ、芸術は生まれない。
CiNii 論文?-? 謡曲の伝説化についての一考察 : 『謡曲画誌』の注釈から ci.nii.ac.jp/naid/120004027… #CiNii
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CiNii 論文 - 謡曲の伝説化についての一考察 : 『謡曲画誌』の注釈から ci.nii.ac.jp/naid/120004027… #CiNii fb.me/6VHrqcJ3X
宗泰院子授け地蔵:東京都にある、嘯山春虎が開山した寺院。1909年には陸軍士官学校の校地拡張のため高円寺に移転した。江戸時代の制作で、嬰児に乳を与えている珍しい地蔵菩薩である。民族信仰の発展形だと考えられる。 pic.twitter.com/4vBdjMHMtz
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■「結婚はカヌーで旅をするようなもの。男は船首(へさき)に腰をおろしてカヌーをこぎ、女は船尾(とも)に腰をおろして舵をとる。」【アベナキ族】
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■「結婚はカヌーで旅をするようなもの。男は船首(へさき)に腰をおろしてカヌーをこぎ、女は船尾(とも)に腰をおろして舵をとる。」【アベナキ族】
いよいよ迫る「沖縄が独立する日」 国際世論に訴える動き加速- 記事詳細|Infoseekニュース socialnews.rakuten.co.jp/link/679380 #r_socialnews