私は旅に出る理由をたずねる人があると、いつもこう答えることにしている。『私は自分が何を避けようとしているのはよくわかるのだが、何を求めているのかはよくわからない』と(モンテーニュ)
第二の人生は、「遊び」の比率を高めようと思う(もうやっているけど)。また、旅にでも出ることであるとしみじみ思う。旅も、単独で行くのがいい。年に四回程度。季節の変わり目に。春、夏、秋、冬と。
第一の人生が終わったからである。それも一生懸命働いてきたからである。そもそもそのことについては、誰も褒めてくれない。家族だってそうだ。しかし、褒めてもらうためにせっせと働いてきたのではない。生きるためには、働くしかなかったからである。喰うためにである。そのことまで否定する気はない。当然であるからだ。
しかし、第二の人生はゆったりしていればいい。第二の人生でもって、第一の人生をこれから生きていこうとしている若手研究者と張り合ってしまったのが、そもそもの大間違いであったからだ。だから、もういいのである。生涯学習ごっこは続けるけど、第二の人生であることを忘れてはいけなかったのである。だから、私の場合は旅に出ることが、老後の趣味になっている。
旅といっても、ツアーが一番バカバカしいのであるが、私に単独行はちょっと厳しい。旅先で具合が悪くなったら私の場合は、アウトであるからだ。可能性もあるからである。だから、古女房ドノが一緒である。情けないケド。病気を持っているからである。病気というのは、一病息災というけど、だからと言ってなかなか息災とはいかない。不安があるからである。病気は不安の理由になる。だから、健康でありたいと思う。
しかし、なぜ「遊び」なのか。
もっとも「遊び」といっても、老人の遊びである。おバカキャラのミニスカ・オネーチャンのいるような、酒宴で遊ぶのではない。さらに、カラオケで下手くそな歌を歌っているのではない。もうそんなバカバカしいのは、卒業したのである。仕方無しに行っていたというのが正解であろう。仕事で、おつきあいで行っていたからである。マジに。
楽しいから遊びをやるのである。ただし、経済状況とリンクする。当然である。喰えないのでは、遊んでいる資格はない。あたりめぇである。
さらに、遊びはいけないものという文化が日本にはある。これは確かにそうであろう。遊びは仕事の邪魔になる。たいていの親は、こどもを叱るときに「遊んでばかりいて」とか「勉強したの?」と叱る。
だから、遊ぶことは抑制の対象になる。
じっとして遊びを抑制して、仕事や勉強に邁進していくわけである。仕事や勉強をほったらかしにして、遊んでいたらまともに扱われない。当然である。
しかし、今日の記事は、「リタイア後」の話である。
定年で退職したら、もっと遊び比率の高い人生を送っていったらどうだろうかと思うのである。遊びを厳しく見て、そんなくだらないことをやってちゃいけないという方々も多い。大きな誤解である。
遊びくらい、勉強になるものはない。それをである。非生産的であるからと言って、毛嫌いしていたらもったいない。なんでもかんでも、生産的であるか、非生産的であるかという考え方では、私のような老人はどうすりゃいいんだと聞きたくなる。
存在そのものが非生産的ではないか。私なんぞ。
第一の人生はそうはいかないだろう。
喰っていけないからだ。家族もいる。子どももいる。経済が重要だというのは実によく理解できる。
しかしである。
第二の人生ではもういいではないか。後は、「死」が待っているだけである。100%である。
死へと向かっているだけなのだから、無罪放免されたとでも思う事である。できるだけ、単独で遊びを、旅をしていきたいものである。
その点ではオートバイがいいのだが、こっちは体力が必要である。無理じゃ。それに、老人ツーリングの交通事故が増えていると聞く。危ない、危ない。危ないことには近づかないことである。無理も禁物。
可能ならば、自分で運転するのでは無く、運んで行ってもらう交通手段がいい。そして、好きな本でも持って行くことである。単独行ならそれができる。自然もできるだけ長く見ていることも出来る。バカ話をしている義務も必要も無い。好きなだけぼ~っとしていられる。
これがありがたいのである。
これである、これ。
ぼ~っとするために、行くのである。普段から、ぼ~っとしているだろう?って言われるかもしれないが、それが楽しいのである。
旅でなくてもいい。映画でもいい。観劇でもいい。私の場合は、観劇=能だ。これは私だけの趣味であるからだ。だから、お江戸に一人で行く。千駄ヶ谷の国立能楽堂である。これもまた趣味として意識し始めてからは、楽しい事限りなし。そうなのだ。以前は、能でも論文を書いてみたいと思っていたから分析的に見ていたのである。恥ずかしいことであった。今は、ジュンスイに楽しんでいるだけである。こういう時期になったということである。そうなのだ。大学院を退学したから、自由自在に観劇できるようになったのである。
自由になったからである。
自由な時間を楽しめばいいんである。それだけである。それだけ。
最後っぺである。
モンテーニュの言葉がいい。実にいい。それを以下に書いてこの記事を終わりにする。(モンテーニュに激しく同感するけど)
「私は旅に出る理由をたずねる人があると、いつもこう答えることにしている。『私は自分が何を避けようとしているのはよくわかるのだが、何を求めているのかはよくわからない』と」