同じ能でも、表現手段の方法とか、場所が違っているとこんなにも印象が違うんだ
昨日の飯高檀林で行われた能「土蜘蛛」・狂言「附子」は、よかった。
老人大学の学友たちと一緒に見てきた。こういうのもいいものだ。能というと、たいていはお江戸・千駄ヶ谷の国立能楽堂で見るから、一人で行く。面倒だからである。それに、こんな趣味につきあってくれる人もいない。さらに他人を巻きこむこともない。オノレの趣味であるからだ。
他にもいろいろ趣味はあるから、他人を巻きこむ必要も無い。
さらにある。趣味というのは、放っておいて欲しいというレベルでいいのである。誰かとのおつきあいでやるもんじゃない。現役の仕事人だったら、話はわかる。上司の趣味にあわせて(たとえばゴルフ)、ゴマすり精神を発揮するというわけである。それでめでたくご出世あそばすならそれでおおいに結構である。
しかしである。大学にもAランクからFランクまであるように、所属している組織・会社にもランクがある。これは間違いないことであろう。否定しようとしても、否定できないことである。それはオノレが決めることではないからである。他人が決めることであるからだ。それに大学もそうだが、会社も、仕事も世間の評判というのがある。
それが正当であるかどうかは別である。
それでも、評価はある。大学や、会社や、組織がウラで何をしているかということも重々承知した方がいい。接してはならない国家やウラ組織とつながっている可能性があるからだ。それでもって選択する資料・材料にした方がいい。進学や就活のことを言っているつもりである。特に、近代的なネーミングでもって最近売り出しているような、大学、会社、いろいろな組織というのはいかがわしくないのか?そう思う。おっと、こっちがいい加減古くなったからかもしれないけど。それに書いちゃいけない場合も多々あるらしいから、これくらいにする。後が怖いので。生きてるやつはなにをやっているのかまったくわからないのであるから。
そういう意味で、能や狂言は変わらない。評価とか、世間のナントカというのとはちょっと違う。それを言いたいのである。能や狂言が、横文字で表されるようになったら、私は見るのを止める。もうそれでお仕舞いにする。
「ザ・ノウ&キョーゲン」とかになったら、それこそお化けである。寂しいかぎりである。だから延々と伝わってきている伝統文化を絶やしてはならないと思う。
このことは日本語を大切にするという点でも同じことである。
日本人なら古典の素養がないと話にならない。それこそ話をしていても、こっちが飽きる。話の内容がつまらないからである。
このことは中国語を学んでいても同じ事である。いろいろな中国人に教えていただいたが、なかなか中国古典まで知っている現代中国人はいない。現代中国にはまったく興味関心が無いからである。アタシャ。
内容のない話だけをしていても、そんなのは時間の無駄である。なにしろこっちは、残り時間が少ないからだ。そう、死んじゃうからである。あと何年生きるかわからないけど、そんなに長くないことだけは確実である。100歳を超えられるかと想定しているんだけど、無理かな。その前に惚けたりして。もっともこっちが(惚けるのが)一番怖いんだけど。あくまでも尊厳を保ちつつ長寿をまっとうしたいからで。
(^-^)/
相変わらずとりとめのないことばかり書いている。
実は「表現手段の方法」ということについて書きたかったのである。
能「土蜘蛛」を見てしみじみそう思った。「土蜘蛛」は、能としてはわかりやすい。初級レベルの能であろう。蜘蛛の糸をまき散らしてみたり、庶民受けする内容でもある。
ところが、これを千駄ヶ谷の国立能楽堂で見ると、またまた違ったものに見えてくるから、ことは難しくなってしまう。
それは演じられている舞台が異なっているからである。
昨日見たのは、寺院のお庭である。外で見たのである。寒くてマイッタけど。雨も降りそうだったし。雨が降ったら、演者の来ているモノが台無しになってしまうし。ハラハラしていた。
しかしである。同じ能でも、表現手段の方法とか、場所が違っているとこんなにも印象が違うんだということであった。
それを考えていたのである。
たとえは悪いが、夫婦の喧嘩でもそうだ。好き合って結婚したのに、あるは愛しているのに表現手段が悪いばっかりに、別れてしまうのが結構いる。だから、愛というのは、そもそも本質的なところで、愛されているという錯覚、あるいは愛されているのは自分自身であるという「自己本位」でしかないのではないのかという疑問があるからで。愛とは、自分だけの問題であって、他人が愛されるのは我慢ならないという性質を持っているらしいから。それを愛というのかどうかは実に疑わしいことである。
そんなことをふと思ったのである。
私のように野太い声も印象が悪くなってしまう。まるっきり怒っているように受け止められるからである。
印象というものの大切さを感じてきたのだよん。昨日は。
だからと言って、アデランスをかぶる気はまったくないけど。アタシャ。アデランス効果でもって、モテテどうしようもないとなったら地獄であるからだ。わはははっははははっははは。
それは今日も元気に頑張りましょう!
ヾ(*´∀`*)ノ