そう言えば、オレはモテなかった 昔も今も
私はおそらく欺瞞に満ちた、非常に楽天的で、おめでたい部類の人間に属しているのだろう。そう思う。自分がそう思うのだからそうなんである。もっとも、そういうようにしか書けないのだから、やはり楽天的でおめでたいのだと自覚している。
しかし、私は他人を裁かない。
なぜか。ある特定の宗教支持者のように「すでに決めてしまった価値観から人を裁かない」からである。
簡単に言えば、他人の求めるような仕方・方法でもって、やさしく他者のことを扱わない。なにを言っているのかというと、神や絶対者の価値観でもって人を判断しない。良い例が、愛があるかないかという観点からだけ人を判断しない。
世間には愛があるという人の方が珍品であろう。平等に人を愛し、誰にでもやさしく、微笑みを切らしたこともなく、まことに人格高邁で、ダメジジイのこっちが見習いたいくらいの方もいることはいる。そして、そういう方々は100%宗教を支持しておられる。
ところが、たいていはそうではない。日本人は特に無宗教であることを誇りにしているくらいであるから、そういう宗教支持者(信者)を信用しない。もっとも、宗教支持者の側にも問題はある。ある種の傲慢さがすぐわかってしまうからである。神という絶対的な価値観から、愛があるかないかと速攻で人を判断して、「無知蒙昧だから救ってあげよう」という思考が見えてくるからである。表面上は、柔軟で優しい。ところが、よく話してみると「指導してやろう」という隠された意図がよく見えてくる。
それにもう一つ問題がある。あらゆる宗教団体がそうであるように、経済問題が必ずからんでくる。あたりまえであろう。つまり、組織を維持していくための「献金」である。それがないと組織を維持発展させていくことができない。当然であろう。
だから、アタシャイヤなのだ。献金がからむととたんにイヤになる。なぜ人の救済がカネがらみなのだと思ってしまう。
それだけ私は「我」が強いのだろう。救いがたき人種なのである。もっと悪く言えば自分のことしか考えていないと言われても仕方が無いくらいである。だから「愛」が無いのだ、優しくないのだ、バカなのだ、ノー天気でなにも考えていないのだと言われてしまうのである。
それはそれで認める。
しょうが無い。認めざるを得ない。
しかしである。
「愛」とはなんぞや?となるとこれはこれはとたんに難しくなる。
よく言われるのがキリスト教でいう「アガペー」であろうか。しかしである。それがホントに「愛」なのだろうか。特定の信者にとっての、「自分に都合のいい」だけの「愛」ではないのだろうかと思うからである。
妻に(夫)優しくないから離婚するというのもそうだろう。自分(妻や夫)の側の一方的な立場からしか考えていない「愛」でしかないのではないのか。相手のことは考慮に入っていないのである。しかもである。「愛」を問題にする人は、すでに神とか絶対者の側に判断をゆだねてしまっている。それは疑問に思ったり、価値観が揺らいではならないそれこそ絶対的な価値であって、その高所からのみ考えている。考えているというよりは、無意識のなせる技かもしれない。
あまたのくだらない恋愛小説とか映画とかドラマとか、そういう構成になっているのだから始末に負えない。だから不倫が流行するのだろうし、まねをしたくなってしまうのであろう。
ラジオなんかの人生相談なんか聞いていると、「自分だけの方法・論理」でもって、相手を敵を容赦なくぶったたき、貶めているだけにすぎない。もっと言えば、回答者にその解決を求めているのではなくて、すでにできあがっているオノレの回答を確認しているだけである。そういうのにつきあわせられる回答者の辛抱強いcharacterにも尊敬してしまうのであるが。
もっとある。
師弟関係である。
これもまた、師匠にとってはやっかいなことであったろうと感謝していることだからである。中途退学した某大学のことである。博士課程に三年在学させていただいた方の大学である。
院生であった私の方の一方的な思い込みで三年間通学したからである。こちらの側の勝手な思い込みでもって、師匠に多大なるご迷惑をおかけしただけであったからである。つまりもしかしたらもしかして、私のようなモンでも「**博士」になれるかもしれないという基地外のような「思い込み」でもって通学していたからである。それはオノレの側の一方的な「思い込み」でしかなかったのである。
だから感謝しているのである。
私だったらできない。なぜか。私には、私のようなオノレだけの論理でもってゴミ論文を大量生産している基地外院生につきあうだけの「愛」がないからである。
私だったら、「どうせ才能がないのだから、さっさと退学しちまえばぁ~」と言ってしまう。それを師匠はなさらなかった。ありがたいものであった。「愛」とはこういうことであったのだ。
今更ながらこんなことに気がついてしまったよん。バカとか、基地外の変種である。こういうのを「テオクレ」というのである。気がついた時には、もう遅い。
どんなに周囲の人間に嫌われてきたかということである。家族も含めてである。前の仕事の時もである。今もである。老人大学や老人クラブ、あるいは古文書講座や郷土史の関連の方々にである。
☆
そう言えば、オレはモテなかった(突然話は変わるが)。
これもそうだったなぁと思う。つまり、周囲の方々に嫌われていたのである。漱石の言うところの「我」である。「我」が強すぎて、他人のことが見えなかったのである。特に女性がなにを考えていたのかということがまったくわからなかった。今もそうである。
まったくわかっていない。
さらに、女性に嫌われていることすらわかっていない。いなかった。
もうテオクレである。これで枯れ木のようにしぼんでいって、相手にしてくれるのは、枯山水だけ。
紅葉のように、散る寸前にぱぁ~っと見事になるか。そんなことを言ってもクチさみしいだけである。
もっとも、今月紅葉を見てくるけど。東北に。
こんなことばかり考えているから、ノー天気で、楽観的で、アホなのだと言われてしまうんだろうなぁ。
今日は夜のバイトがある。塾である。これから図書館に行って教材研究でもしてくるか。朝の散歩もかなりやってきたし、午後から再度gymにも行くが。
これがつまらないジジイの日常でございまするよ。
(^_^)ノ""""