昨日、「老人大学その意義」という検索語でご訪問いただいた御仁がいるらしい
今日は老人大学に行く予定なり。
今朝の拙ブログの検索に「老人大学その意義」という検索語でご訪問いただいた御仁がいるらしい。(*_*) マイッタですな。(*_*) マイッタ。
拙ブログにそういう検索語で辿りつかれたのであろうから、ありがたい。しかしである。「意義」があるから、老人大学に行っているのではないので、なんだかちょっと申し訳ないという気持ちになっているのである。そういうことをあらかじめ調べてから、老人大学に来られるのだとしたら、ちょっと待ってくださいなと申し上げたいからである。
なぜか。
それは、「思い立ったら吉日」であるからである。行ってもいいかなぁ~と思われたら、書類を出して、入学されるがよろしい。十分に調べても、ダメなときはダメであるからである。
物事にはなんでもそうだが、表と裏がある。そんなことは、年輪を重ねてこられた人生の達人はよくわかっておられるだろうから、なにを今更である。
老人大学も、不満に思う方はおられる。実際、中途退学される方もいる。配偶者が入院したとか、ご自分の健康が悪化してしまったという理由もあるだろう。
私は、今のところ健康不安はあるものの、発症していないから続いているというだけである。ありがたいけど、そうなのである。それだけでもある。
だから、あんまり期待しないほうがよろしい。
これは、大学とか、大学院もそうである。期待してはアカンですぜ。そもそも、大学とか大学院なんて日本には掃いて捨てるほどある。内容を精査しても、実際その大学なり大学院に在籍している人から直接話を聞いたほうがいい。それは間違いない。私も何人かとお会いしたことがあるからである。
でも、そういう情報は、話し手の感情が入っている。それはわきまえないとアカンですな。客観的な情報でない可能性があるからで。
今日、これから行く老人大学だって、いろんな不満を聞くことがある。でも、それはあくまで行っている人の感情で言っているに過ぎない。
今日の授業は、「傾聴」と「歯の健康」という二つの講義である。楽しそうだ。それだけである。それだけ。
それに、「傾聴」の方は、ダンダン頑固ジジイになって来ているから、楽しみである。都合のいいことしか、私は聞こえないからである。私に関するワルクチは特に聞こえないからである。
もっとある。
それは、頑固ジジイになってきたから、他人に説教たれるだけにはなりたくない。しかし、なっているかもしれない。だから、「傾聴」は重要である。これから、息子と息子の嫁さんと暮らしていくだろうから、よけいそう思う。
特に、息子の嫁さんに説教垂れていたら、嫌われる。アカン。そんなことをしたらアカン。じっとおとなしくしていた方が身の安全である。
さらに、古女房ドノである。
一番の難物である。彼女は、自分がいないと半病人の私が生きていけないと心の底から思っているらしいのである。それはそれで事実であるが、間違っても逆らってはいけない。
捨てられてしまったら、私は確かに生きていくことができないだろうからである。
だから、「傾聴」が大事だと思うのである。
もっとある。
「歯」である。
ジジイになってもまだまだ歯がある。カミの毛は無くなったが、左の奥歯を一本失っただけで、その他の歯はまだまだ生き延びているのである。
リンゴも、スイカもガシガシと食う事ができるのだ。ありがたいこと限りなし。
その講義も今日ある。歯科医の先生からである。2時間もである。こんなにありがたいことは無いではないか。
ま、そんな程度でもって喜んでいるだけである。
そうなのだ。甲羅に似せて生きていくしかないではないか。今更である。今更、第3の人生を目指して、エリート街道まっしぐらというわけにはいかんではないか。
若い人とは競わないことである。
なにをやってもかなわないのであるから。
古女房ドノにすらかなわないのである。食欲も、元気も、健康も、体力も・・・・・トホホ。
さ、当番なので早めに行きます。
受付と、講師の水飲みと、講壇に花を飾るので。
このハゲジジイがである。
(・u・)>ベー
バイバイ。
(今日は1700字しか書けませんでした・・・・・)