と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

バチカン市国 バチカン美術館 システィーナ礼拝堂 04

2016年04月04日 17時49分20秒 | イタリア紀行2016年5月

バチカン市国 バチカン美術館 システィーナ礼拝堂 04

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サン・ピエトロ大聖堂、サン・ピエトロ広場

2016年04月04日 17時47分49秒 | イタリア紀行2016年5月

サン・ピエトロ大聖堂、サン・ピエトロ広場

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ヴァチカン市国・ヴァチカン美術館

2016年04月04日 17時46分11秒 | イタリア紀行2016年5月

ヴァチカン市国・ヴァチカン美術館

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「選択」「分岐点」「喪に服す」・・・・自己責任ですなぁ~ボキの場合は

2016年04月04日 09時06分03秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

選択した結果、三年の喪に服すということは不可能であるから。これが分岐点なのかもしれないけど、仕方なし。もうボキには時間がないからである。やれることは全部やるというのが、生活スタイルだから。

 

 

今になって思えばというのが、世の中にはたくさんある。あの時こうすればよかった、ああすればよかったということである。そんなモンいくらでもある。

後悔というのとはちょっと違う。「分岐点」である。選択の結果、こうなった・ああなったという分岐点である。それは、オノレの選択の結果である。

しかし、ど~もその選択の結果を他人のせいにしがちな方々が多い。他者責任というわけである。自分は一切悪くない。全部、リーダーが悪い、判断力がない、後処理が悪い・・・・等々である。某政党と一緒である。おっと、こっちはあまり書けないか。ま、そういう方々と考え方やものの感じ方まで一緒にしないことである。真似しちゃアカン。

独自性を持つということがもっとも重要であると、ボキなんか思うのであるが。

本を読んでいても、他人の真似をしている本はつまらない。あきらかに真似だとわかるからである。こいつはあの古典からヒントを得たのかもしれないと思うと、本を買ったボキが情けなくなる。やっぱりボキはバカだったと思い知らされるからである。

でも、選択をする時というのは、人生においておおいにある。進学もそう。就職もそう。結婚もそう。

退職や死ぬときは選択できないだろうけど。ある意味。例外を除いては。だから、選択した結果は問わないことである。他者にも、オノレにもである。

自罰をしないことである。オレはダメだとか思わないことである。たとえそうであっても、ダメなのはこの部分だけであって、他の場合はそうでもないかもしれないと思うと気楽になる。

ボキが良い例である。学者センセとか、研究者から見たら、まったくボキなんか箸にも棒にもひっかからないバカ・基地外の類いである。それは自分が一番理解している。挫折ばっかりしてきたからである。要するに、人生裏街道ばかり歩んできたっていうわけである。およそエリート街道を歩いてこなかったのである。当たり前でアル。エリート街道なんて、どこにあるのかすら知らないからだ。それに、ボキの周囲にもエリートはいない。自称はいるけど(^Д^)。

だから真性のエリートというのを見たことがないのである。

この人は、人類史というか世界史のような歴史に名を残すだろうとか。そういうのがいないのである。

柔道もそう。ボキの周囲には、オリンピックで優勝したとか、全日本で優勝したというのは一人もいない。実績もないのに、昇段だけはしているのもいっぱいいるからである。高校時代にちょっとやっただけで昇段していくのであるから、ここらへんが、剣道と違っていると思わざるを得ない。ま、こっちもあまり書くといけないからこれくらいにするが。

つまり、名誉や社会的地位が欲しくてイジイジしていちゃアカンとホントに思うのである。

そんなもん、なければないで、気楽に生きていけるではないか。勲章が欲しくて死ぬほど欲しくて、あちこち運動して、それでもダメになって結局死んじゃったというのもいる。そういう方を知っているからである。

死んだら、そんなもんあの世に持っていけねぇではないか。棺桶の中に入れてもらえばいいってか。

わはははっははっははっはははっはははっはははっは。

ボキも人のこたぁ言えねぇ、言えねぇ。

学位をほしがっていたからである。

しかも、みっともないほど学位にこだわって、とうとう病気になっちまったのだ。

これこそ真性のバカ・基地外である。学位を拒否した夏目漱石が聞いたら、せせら笑われる。

「そんなに君は実力があるのかね?」と、漱石センセに皮肉っぽく言われたら、ボキは答えようがない。

あ、これだけは言える。

「そうです、ボクは身の程知らずのバカ・基地外でございます」とは。

その前に、あの偉大なる漱石センセが、ボキごときに会ってくれる筈もねぇけど。

当たり前ですな。

ボキが生まれる前に漱石センセは死んじゃったんだから。

 

 

拙ブログにイタリア紀行のyoutube動画をリンクさせている。当然、事前学習である。イタリアに義母の大往生で行くことができなかったから、四九日が過ぎたら行くつもりである。土産も義母は楽しみにしていたからである。

喪に服すということも考えたが、孔子じゃあるまいし、本格的に喪に服すとなると数年は服喪の期間になる。三年くらいはやっていなくちゃならない。孔子の本を読むと、服喪の期間は、殷周の時代では父母の喪は三年であるとある。

むろん以下のような資料もあるけど。(「仏事まめ百科」より)

http://www.ohnoya.co.jp/faq/dictionary/nenmatsunenshi/

 

明治7年に出された太政官布告では、別表のように、忌(忌中)と服(喪中)の期間をこと細かく定めています。忌と服は、謹慎度の深さによって分けられますが、おおまかには、忌は自宅に謹慎する期間、服は喪服を着用する期間と考えていいでしょう。現在ではもちろん、こうした法令はすべて撤廃(昭和22年に廃止)されていますが、仏事の慣例としては、今もこの太政官布告が一つの目安にされていて、たとえば父母の死亡に際しては七七忌(四十九日)までが忌中、一周忌(一年間)までが喪中とされることが多いようです。

続柄

忌日数

服(喪)日数

父母

50日

13カ月

養父母

30日

150日

30日

13カ月

20日

90日

嫡子(息子)

20日

90日

その他の子(娘)

10日

90日

養子

10日

30日

兄弟姉妹

20日

90日

祖父母(父方)

30日

150日

祖父母(母方)

30日

90日

おじ・おば

20日

90日

夫の父母

30日

150日

妻の父母

なし

なし

曾祖父母

20日

90日

 

これだと、ボキだって、いつ死んじまうかわからなくなる。ましてや、中国古代のように、三年も喪に服していたら、その前にボキもいなくなっちまう。

さみしいですよん。それじゃぁ。

義母も喜ばないだろうから。それだと。

まさか孔子の時代ではないのだから。

 

さ、以上でござりまする。

雨が朝から降っている。

月曜日でgymも図書館も休みである。

ショッピングセンターでも行ってくるしかない。

 

ヾ(@⌒―⌒@)ノ

 

 

 

 

 

 

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4月3日(日)のつぶやき

2016年04月04日 06時16分50秒 | 老人大学ごっこ2015年から2016年

かつての美男美女は、もうジジババになってしまっているんである。これもまた世代交代である。若い人はドンドン出てくるからである。それが運命である。運命。そしてドンドン大往生していけばいいだけである(... goo.gl/NhwpKx


こういう若い現職自衛官がおられるということに、素直に感心しています。 fb.me/UqjPSx6Y


陸自の美人歌姫 鶇真衣さん 密着取材! 涙の特訓8ヶ月! fb.me/5shf1duWL


ローマ旅行ガイド | エクスペディア goo.gl/rQFmIw


【番組本編その5】イタリア・一度は行きたい街巡り #1 永遠の都ローマ goo.gl/OVNKBG


【番組本編その6】イタリア・一度は行きたい街巡り #2 古代ローマ黄金の日々 ローマ郊外 goo.gl/kc1PBl


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/