過去のことで悩む必要はまったくない。今日現在が一番充実していれば、それで良しであるから。
あああああああ、シマッタ。あのとき、ああしていれば良かった、こっちの選択肢があったのではないのかと思うことがある。過去のことである。
しかし、そう思えるということ自体、自分が向上しているのだ。過去の経験から何かを学んだのである。ありがたいではないか。
今日という日は、過去の経験が一番生きている日である。あるいは、もっとも知恵がついた日である。今日のボキは、これまでの人生の中で一番の長老であり、一番のベテランである。経験があるからである。
つまり、今が大切だということである。禅僧がよくそういうことを言われるが、ボキは禅僧ほどの知識はない。されど、同感である。今の連続が、今日であり、未来である。確かにそうだ。
しかし、過去も現在も未来も「受け止め方」である。どう受け止めるかということが、もっとも大切である。少なくとも、そう思うことにしている。
受け流すと言っても良し。
感情的にならないことである。
未来のことも考えると、今日はもっとも未熟な日である。過去の積み重ねが一番なのが今日だとするなら、同じ論理で未来はこれからスタートするのだから、未来は発展形である。だから今日が一番未熟なのである。未来の経験は永遠に前もって積むことはできない。だからである。
未来の前には、ボキは最年少ジジイである。さらに未熟である。だから、「もっと勉強しよう」「もっと向上しよう」となる。
過去の人生から得たもので最高の自分が今日の自分であり、未来はもっとも未熟なこれからの自分なのである。
階段の下にいるのが、過去の自分。
階段の一番上にいるのが、未来の自分。
今日、生きている自分は階段の途中にいる自分である。
ということは、現在の自分は下の階段から見れば、最高の自分。
過去の自分は確かに未熟であり、あの時あすれば良かったとか後悔が先に立つのは仕方なしという面もある。でも、そりゃぁあたりめぇであって、未熟に見えない方がおかしい。もうすでに終わったことであるから、後悔も反省もしなくてよし。そんなことにこだわっていたら、第一人生がおもしろくないではないか。
ところが、階段の上を見ると、今の自分は一番低いところにいる。見上げるように高い階段かもしれない。あるいは途中で壊れているかもしれない。したがって、謙虚に十分注意しながら生きていくしかない。
過去の自分にこだわって後悔や反省ばかりしている人は、未来のことを考えていないのではないのか。
自分を磨いたり、向上させるという観点がないのではないのか。
ボキも人のことは言えない。言えないけど、過去にこだわって後悔ばかり、反省ばかりの日常生活ではない。
某大学大学院中退事件だって、もう取り戻しはできないのだから。
そんなことより未来を見据えて、今日を充実させていくことである。
今日はこれからお世話になっている歴史の会で史跡巡りをするから、その下見で利根町まで出かけてくる。ある寺院にあいさつをしてこなくちゃならない。3人で。有名な柳田国男関連である。
定年退職直後には、こんなことをやっている自分だとは夢にも思わなかった。
感謝である。
それに昨日は千葉市の某高校で、授業をやっていた。二クラス合同であった。健康問題についての小論文を書くために材料を提供していた。サクセスフル・エイジングということを主眼にしてみた。修士の時に扱ったテーマでもある。パワーポイントでやった。生徒が大学の授業みたいと言っていたのには笑ってしまったけど。動画も採用して、興味を持ってくれるように工夫した。そんなのも、過去にコンピュータ関連の千葉県の教育研究センターに在職していたからできるようなもんである。ありがたい限りである。
さ、出かけよう。
夜は美酒を飲もう。般若湯というではないか。
わははっははははっはははっははっはははっはははっは。
(´∀`*)ノ