と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

旅のしおり まるっきり、じじとばばの同窓会でしたよん ぼーっとして生きてんじゃねぇよとチコちゃんに叱られてしまうけど(^_^)

2018年10月31日 18時35分18秒 | 中国武陵源紀行2018年10月

 中国武陵源の旅 


※18:39家にいます。生きて帰って参りました。わははっははははっはははっははっははははは。(写真は全部カットしてあります)

 

 

日程は、2018年10月25日(木)から31日(水)まで Kindleに仕込んでいった旅のしおりでございます。お笑いくださいませ。

 

 

10月25日(水) 成田空港発 18時45分 所要時間4時間15分

武漢着 22時00分 着後専用車にてホテルへ 45キロ 40分

ホテル到着 24時

ホテル名

麗楓酒店 

 

 

10月26日(金)

6時45分 ホテル発

武漢駅へ

 

高速鉄道で長沙へ(2等指定席)

 

長沙着

専用車にて武陵源へ(350キロ 4時間30分)

武陵源着

武陵源は、湖南省張家界市にあり、張家界森林公園、索渓谷自然保護区、天子山自然保護区などの地域からなる自然保護区です。エリアの97%が森林に覆われており、奇岩と木々、雲海が、ここにしかない特別な風景を作り出しています。3000を越す奇岩が瞬時に千変万化する素晴らしい景観には、心を奪われることでしょう。植物層も豊かで、中国第一級保護植物が4種、第二級が40種確認されています。 1992年より、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されました。

 

索渓谷自然風景保護区観光(1時間30分)

湖南省張家界市にある、張家界森林公園、索渓谷自然保護区、天子山自然保護区などの地域からなる自然保護区の総称である。2009年公開の映画「アバター」の舞台となり世界的に注目された。

 

索溪谷自然保護区:索渓峪は、宝峰湖と黄龍洞からなり、張家界森林公園と天子山より広い山岳地帯で、山、林、水、洞が併存している多彩な風景区です。国家級保護動物や第一級・二級保護植物が数多く生息しています。

 

宝峰湖:1970年代、地元の住民が発電のために、高さ72メートルのダムを谷間に建設し、水を蓄え灌漑を施したところ、期せずして風景奇麗な湖ができ上がった。湖は宝峰山に沿うことから、この名が付けられた。透明無比の湖は、武陵源“四大絶壁”の一つ。

 

黄龍洞:1983年に発見され、その類を見ない規模と特異な景観で、「中国一の鍾乳洞」「アジア一の奇洞」と称されています。洞内の観光に要する行程は洞内湖の遊覧船観光を含め、総距離が約6000メートル、全部観光するのが約2時間ぐらいかかりますが、一部分を観光しても、カルスト鍾乳洞の広さと偉さを充分に感じます。

 

◎黄龍洞観光

 

ホテル到着 18時15分

張家界(公園内)泊

天子大酒店貴賓楼

   

 

10月27日(土)

張家界発 9時

天子山自然保護区観光

天子山ロープウエイで天子山頂上へ

   

 

御筆峰

幽玄の景観により、武陵源の随一と言われる天子山自然保護区へはロープウェイで行くことができます。標高1,200mの山頂からは、山水画さながらの絶景を一望できます。特に美しいのが「御筆峰(ぎょひつほう)」です。皇帝が使う筆「御筆」を逆さにして挿されたような様子から、この名前がつきました。

 

 

 

 

 

仙女散花

維摩経によれば、ある日、如来はインドの蓮花宝座で経を説いていると、突然瑞雲が東から来るのを見て、弟子の維摩詰が難病になっていることに悟る。そこで、大衆の弟子に見舞いに派遣する。如来は維摩居士がこの機会に仏典を解説するだろうと考えており、弟子達が学ぶ様子を検証するように天女を派遣した。天女は花かごを手に提げて飛んでいき、下界に来て頭を下げて見ると、維摩潔が弟子に教えを授けているところを見かけた。天女がすぐさま花かごの鮮花を下界へ撒くと、弟子舎利弗は全身花まみれとなった。みんなはとても不思議に思っていると、天女は言った。「結習未だ盡きざれば、固より花が身に著く。結習盡くれば、花身に著かず。(煩悩を離れていないから花が身に付くのだ。煩悩を離れれば、花は体につかない。)」舎利弗は天女の教えを知り、ますます経文の勉強に励んだ。

 

 

賀龍公園

天子山ロープウェイ降り場から巡回バスに乗り、5分後くらいで停車した場所が賀龍公園です。散策路がありますが、メインの道だけ通りました。細長い奇岩群が見渡せて、なかなかの迫力でした

 

 

袁家界風景区へ

絶壁の岩肌にある百龍エレベーターを利用して頂上駅から袁家界の迷魂台に、更に天下一橋までの遊歩道を歩いて世界自然遺産に指定されている袁家界の奇岩群や山並みの眺望を楽しみました。

 

袁家界の景色は今まで見たことのないスケールの大きい奇岩群でした、遊歩道には所々に展望台がありじっくり見ることが出来ました、写真も多く撮ることが出来ました。

 

 

 

 

 

 

迷塊台袁家界は山地で、生い茂ている森、漂っている霧、繋がっている山々に囲まれている美しいところです。最も有名なスポットは『アバター』に出ている「ハレルヤ山」のロケ地になった乾坤柱です。そのほかに、勢いのある迷魂台、天下一橋などのスポットも人気があります。

 

 迷魂台は景色を眺める一番いいところで、迷魂台に立つと、周りの百座を超える石柱が見られ、勢いは凄まじいものです。天下一橋は二つの山を跨る幅2m、長さ25m、垂直の落差は357m、世界で落差の最も大きい自然の石橋です(この石橋には入ることはできません)

 

 麓から袁家界へ行くには二つの道があります。一つは「金鞭渓大峡谷」真ん中の「千里相会」の分かれ目に行って、「乱せん坂」から歩いて袁家界へ行きます。およそ2時間かかります。

 

 もう一つは「金鞭渓大峡谷」を出て、「水饒四門」を経て、「百龍天梯」(下)に着き、エレベーターで頂上へ登ります。時間もかからず、「百龍天梯」(上)から観光地の無料電動自転車で袁家界の駐車場に行きます。やはり、二番目の行き方をお勧めします。時間も精力も節約し、「金鞭渓」の後半の風景も見られます。

 

 「百龍天梯」は張家界国家森林公園にある金鞭渓、袁家界、天子山などの観光スポットを結び付いております。金鞭渓大峡谷の近くから袁家界まで、所要時間は2時間ですが、「水饒四門」でエレベーターに乗ったら、2分間しかかかりません。

 

 「百龍天梯」(下)は金鞭渓大峡谷近くの「水饒四門」という観光スポットにあります。(400m離れている)そして、上は袁家界スポットです。エレベーターの落差は335mで、上下の移動距離は326mとなっており、山内のトンネルとエレベーターの組み合わせからなっています、合わせて3台ありますが、すべて透明のガラス張り構造で、エレベーターに乗ると、張家界の絶景である「新兵集会」を楽しめます。「新兵集会」は「百龍天梯」の向かい側にあり、何十座の独立した石柱でできています。

 

 「百龍天梯」は「世界で最も高く、速度が最も早く、積量は最も大きいこと」でギネスに登録されました。

 

 袁家界を回り終えたら、観光地の無料バスで北側にある天子山観光スポットへ行くといいでしょう。或いは袁家界に泊まって、地元料理を体験しましょう。

 

特別ヒント:

1、袁家界には険しい山道が多く、十分気をつけてください。

2、観光地には猿がよく現れるので、面倒を引き起こさいでください。

3、「百龍天梯」を利用するお客様が非常に多く、特に祝日の時、長い列に並び、一時間以上待たせられることはよくあります。

4、観光地の食品はよくありませんので、すこし持参したほうがいいでしょう。祝日の時、ホテルに前もって予約したほうがいいでしょう。

 もし以上の景色にご興味あれば、Arachinaにご連絡ください。Arachinaは袁家界の旅行、交通に関する情報をご提供するほか、オーダーメイドツアーもご提供できます。団体ツアーではなく自由自在にコースを設計し、ご希望の時期と目的地につて、専門的で、ご満足できるプランをご提供致します。

 

百龍エレベーター

 

 

十里画廊 トロッコ列車

 

 

 

18時30分 ホテル前日と同じ

 

 

 

10月28日(日)

11時30分 ホテル発

天門山国家森林公園

中国一長いロープウエイ

 

 

 天門山は自然景観である「天門洞」にちなんで名づけられました。天門山を観光する際、7500mの長いロープウェーに乗らなければなりません。ロープウェーの中から、絶壁の間をぐるぐる回っている道や山の絶景を見下ろして楽しむことができます。大胆な方なら、絶壁の間に建てられて宙に浮いているガラスの桟橋を渡り、空を凌いで歩く刺激を体験してみるのもおすすめです。

 

 天門山は張家界の市区からわずか8㎞しか離れていません。山中の天門洞は自然にできた天然の鐘乳洞です。地元の人々はここから天上の宮殿に直行できます。一般の観光客にとって、天門洞は一年中公開されているわけではありません。毎年の冬になると、雪で道が凍ります。天門洞や天門洞へ行く道(山に沿って99回回る道)は閉鎖されることになります。

 

 天門山ロープウェーの下駅は永定区に位置している官黎坪で、上駅は天門山頂です。そのほか、「中駅」と呼ばれるもう一つの駅があります。そこで観光エリアのエコ車に乗り換え、天門洞へ行くことができます。

 

 天門山観光エリアの至る所に、古木は高くそびえ、藤が木に絡んでいます。観光エリアは天門洞、中ライン、東ライン、西ラインに分けられます。観光客は自分の好みや体力でそれぞれ違う観光ラインやエリアを選択することができます。

 

 中ラインのメイン観光スポットは天門山寺です。寺の近くに「求児洞」があります。民間の伝説によると、子授け観音はご利益が高いので、誠意をもって祈願すると、子供ができるそうです。西ラインの目玉は絶壁に建てられ、歩く道が全部透明なガラスで作られ、約60mの長さがある「ガラスの桟橋」です。その上に立ち、底も知れないほどの峡谷を見下ろし、おどおどしながら、空を凌いで歩く楽しさが味わえます。東ラインは原始林を主としています。現在、150mのガラスの桟橋も架けられています。

 

 天門山観光エリアの中では泊まることができないので、観光時間は一日以内に抑える必要があります。「櫻桃湾レストラン」は天門山寺付近に位置しています。スナックやファーストフードを販売しています。

 

 天門山ロープウェーの下駅付近に、「峡谷大劇場」へ行くバスが止まっています。劇場で奇妙なミュージカル『天門狐仙』が毎晩20時ぐらいにロケーションで上映することになります(上映は毎年3月からと年末の間となります)。

 

特別ヒント:

1、天門山は海抜が1500mです。山頂とふもとの温度差は比較的に大きいので、防寒対策にコートを用意したほうがいいでしょう。

2、天門山は市区より早く暮れるので、17時ぐらいには下山したほうがいいでしょう。

3、天門洞前の数百段の階段を上がるのはとてもきついので、心の準備をしておいたほうがいいでしょう。

4、多くの観光客の評判によると、山中の料理はあまりおいしくないそうです。食べ物を持参したほうがいいでしょう。

5、季節、天気や他の原因によって、観光エリア内の各施設の公開時間はそれなりに調整します。現在、明確なスケジュールがないので、当日、現地へ問い合わせる必要があります。

6、ガラスの桟橋を渡るには入場料がかかります。靴に袋をかぶせて渡ります。

 

ホテル 19時45分着 張家界国際大酒店

4つ星ホテルで部屋はモダンでゆったりしたスペースでした。鍵はカードキーのタッチ式、主電源タイプなので部屋に入ってボックスにカードを差し込むと電気が付きます。フロント、朝食会場は1階です。フロントの内線は専用ボタン、部屋から部屋に電話する場合は、部屋番号のみで繋がります。外線は0発信です。金庫、冷蔵庫、ドライヤー、ポット、ティーセット、バスタブ、シャンプー、リンス等のアメニティーが完備、冷蔵庫の中は空でした。スリッパとバスローブもありました。またテーブルの上にミネラルウォーターが2本サービスで置かれていて助かりました。Wi-Fiは無料で、パスワード無しで利用可能です。川沿いの静かなロケーションで、ホテルの周辺は特に何もありませんが、小さなマートが徒歩7~8分程のところにありました。ホテル内に売店があり、アルコールも売っています。夕方に行った時には10元と言われたビールが、クローズ間際の11時近くに行ったら、別の店番は15元と言ってきました。外国人とみた露骨なぼったくりです。ホテル内の売店でこれです。何とも言えぬ中国らしいさを痛感しました。朝食はミールクーポンで朝6時から自由席で利用できました。まずまずの内容でした。

   

 

オプション 音楽ショー「天門弧仙」

 

 

 

 

 

 

10月29日(月)

8時発

専用車にて鳳凰古城へ 250キロ 4時間30分

鳳凰古城観光

鳳凰古城

 

十数年前にNHKの「世界ふれあいまち歩き」という番組で見て、川の中の足場の上に建ち並ぶ古式ゆかしい住居と、少数民族の朴訥とした暮らしぶりに行ってみたい!と憧れの場所に。今は安全面から足場は埋め立てられ、ひどく観光地化されていたけど、長い間の想いを遂げられてとても満足。

鳳凰古城の絶景のような街並みは清の康熙帝時代に建てられたところで、政治・経済の中心として栄えました。その起源ははるか2000年前の戦国時代に遡り、唐代の古い遺跡まであるほどです。明代にも重要視されていたため、五寨長官司が古城に置かれていました。近代になってからも繁栄は衰えず、21世紀には国家歴史文化名城に指定されました。

 

多くの偉人を生み出した場所でもある

実は鳳凰古城は中国史で活躍する偉人を多く生み出したところでもあります。その鳳凰出身である中華民国初代総理の熊希齢は神童と呼ばれた人物でした。彼は科挙の殿試に合格し、辛亥革命以降も政界で大きな活躍を遂げました。ちなみに水墨画を専門にした黄永玉も作家の沈从文も鳳凰古城地域の出身です。鳳凰古城の理想的とも言える環境がその偉人の才能を開花させたのかもしれません。

 

沈江を小舟で遊覧

 

少数民族が住む数少ない自治区

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中国の華南は多くの少数民族が各地に点在していますが、鳳凰古城もその自治区に含まれます。鳳凰古城にはミャオ族とトゥチャ族が古来より暮らしています。少数民族と漢民族が溶け込んでいるのは観光スポットとして素晴らしいことです。中国にはチベットやウイグルなど少数民族が暮らしている地域がありますが、鳳凰古城でもそれとはまた違った民族と出会えます。

 

ミャオ族の文化を学ぼう

 

鳳凰古城のミャオ族はチベットとは違った独自の文化を持っている人々です。彼らは人の家に勝手に入ってはいけない、口笛を吹いてはいけないしきたりを長年守っています。もちろん祖先祭祀は欠かせません。特にミャオ族の女性の踊りと歌は美しく、一生に一度は見なければ損をします。ミャオ族の文化は鳳凰古城の観光ツアーで触れるべきものなのです。

 

20世紀最大の小説家の家「沈从文故居」

この家は20世紀最大の中国の作家沈从文の生家です。沈从文は故郷を背景とした恋愛を描いた「辺城」や太平洋戦争真っ只中に書かれた「湖南の兵士」などの名作品を世に送りました。彼もまた、ミャオ族やトゥチャ族の血をひいている偉人です。彼の部屋では当時使われた蓄音機や生前に残された草稿、書画などが残っています。

 

历史沿革编辑

沈从文故居

沈从文故居

1902年12月28日,沈从文先生诞生在凤凰古城中营街的一座典型的南方古四合院里。四合院是沈从文先生的祖父沈宏富(曾任清朝贵州提督)于同治五年(1866年)购买旧民宅拆除后兴建的,鳌头,镂花的门窗,小巧别致,古色古香。

沈从文故居于1991年被列为省人民政府重点文物保护单位,故居现陈列有沈老的遗墨、遗稿、遗物和遗像,成为凤凰最吸引人的人文景观之一。2006年05月25日,湖南省凤凰县的沈从文故居被国务院批准列入第六批全国重点文物保护单位名单。

故居始建于清同治五年(1866年),系木结构四合院建筑,占地600平方米,分为前后两栋共有房屋10间,沈从文在此度过了童年和少年时代。1988年沈从文病逝于北京,骨灰葬于凤凰县听涛山下,同年故居大修并向游人开放,现被列为省级文物保护单位。

 

跳石

 

 

万名塔

 

 

ホテル 天下鳳凰大酒店

 

 

10月30日(火)

8時発 南方長城観光

 

 

 

 

 

 

昼食後 壊化高鉄駅へ 武漢を目指す 690キロ 3時間10分 二等指定席

 

武漢着 19時10分

 

ホテル 一日目と同じホテル

 

10月31日(水)

6時20分発

朝食軽食

武漢発 9時30分成田行き 3時間30分

成田着14時

 

※武漢とは?

武漢市は華中地域ないし長江中流域の中心都市であり、華中地方唯一の「副省級市」であり中国の「国家中心都市」の一つでもある。長江とその支流である漢江の合流点にある武昌、漢陽、漢口の三鎮からなり、「江城」という異称もある。武漢は「百湖の市」とも呼ばれ、市内で数多くの湖があり、水域面積は全市面積の約4分の1を占める。

 

武漢は3800年の歴史をもつ国家歴史文化名城で、楚文化の発祥地の一つである。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市に指定されている

 

殷・周

 

殷・盤龍城遺跡(紀元前1800年~紀元前1400年)

黄陂区の盤龍城遺跡には紀元前18世紀~紀元前14世紀前期の殷・方国都邑が保存され、長江流域で発見された唯一の殷代都市遺跡として知られる。

周・春秋・戦国時代に武漢が楚国に支配される。

秦・漢・三国時代

秦代には南郡に属する。

武漢が正式に一行政単位になるのは前漢であり、沙羨県が置かれ、江夏郡に属する。後漢末年に、当時の荊州牧劉表は黄祖を江夏太守に任命し、郡治を漢陽の亀山にし、そこに却月城が建てられた。却月城が武漢の市街地にある最初の城となった。223年(黄武2年)に、孫権は曹操と戦う為、武昌の蛇山に夏口城を築いた。城内の黄鵠磯にある物見櫓はのち、「黄鶴楼」と名づけた。

晋代に武昌郡と改められ、江夏県に治所が置かれた。それは武昌の名の始まりであった。同じ時代に長江の北側に漢陽があり、長江を挟んで向かい同士の二つの街は「双城」と称された。

南北朝時代に、夏口は郢州に拡張され、郢州の州都となった。

隋・唐

隋の時代に、武漢地区で江夏県と漢陽県が置かれ、それぞれ武昌、漢陽をもって治所にする。

唐の時代に江夏と漢陽はそれぞれ鄂州と沔州の州都に再び昇格され、長江沿岸の重要な商業都市となった。多くの詩人は武漢を遊歴し、詩作を詠った。その中には李白が黄鶴楼に登り、作った詩もある。この詩に由来する「江城」という武漢市の雅称が広まった。

一為遷客去長沙 西望長安不見家

黄鶴楼中吹玉笛 江城五月落梅花

 

— 李白『与史郎中欽聴黄鶴楼上吹笛』

宋・元・明・清

 

明代の漢陽と武昌を描く「江漢攬勝図」。左は武昌、右上は漢陽、右下は漢口。武昌の河沿いに立つのは明代の黄鶴楼である。

宋の時代に武昌が鄂州に属し、漢陽が漢陽郡に属した。南宋の時期に岳飛は鄂州に8年間駐軍し、そこを拠点に北伐の師を興した。

元の至元18年(1281年)に、武昌が湖広行中書省の省都となり、初めて第一級行政区域の治所となった。

明代に武昌は湖広承宣布政使司の省都となり、太祖の六男・朱楨は楚王に封じられ、武昌に就藩した。成化の時期に、漢江の長江への合流口が漢陽の南から亀山の北側に変わり、嘉靖の時期に漢江の新流路の北岸で新都市の夏口鎮が形成し、後に漢口鎮と改称された。明末清初に漢口鎮は朱仙鎮、景徳鎮と仏山鎮と合わせて、「四大名鎮」と数えられた。それ以来、漢口は「楚中第一繁盛」な都市とも称され、全国有数の水陸交通要衝となり、「九省通衢」という雅称がつけられた。また、明から武昌と漢陽をあわせて武漢の名が始まり、商業都市として発達した。

清代の初頭に武昌は引き続き湖広省の省都であったが、康熙3年(1664年)に布政司が湖北省と湖南省に分割されたから湖北省の省都となった。ただし、湖北・湖南両省の軍政と民政を統括する湖広総督の官邸は引き続き武昌に置かれた。清末に、漢口が漢陽から分離し、夏口庁となった。以降、「武漢三鎮」と呼ばれると共に、三都市が鼎立する時代が始まった。

 


 
コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/