他人と比較していると、間違いを犯す。ボキの髪の毛も他人と比較していたら、アホみたいである。ボキはボキ。あんたのタメに、生きているのではないからである。
ダメな人間なんていない。みんな輝いているのだ。自己嫌悪に陥ることはもうやめよう。そんなの免罪符でしかない。確かに、経験上自己嫌悪は免罪符である。俺はダメだと言っていれば、逃げることができる。
人間はそういう自己内省があるから、成長するのだろう。でも、物事には限度がある。あまりにも、俺は・私はダメだとやっているとそこから一歩も抜け出せない。
なぜなら、比較しているからである。他人との比較である。
学校教育も悪い。学校は、確かに比較をしていて成績をつけている。親も、教師も一緒になって叱咤激励する。良い成績が人生を左右すると思っているからである。これはある意味仕方のないことでもあろう。
しかし、本当にそうかとなるとちょっとクビをかしげざるを得ない。
学校で他人に勝ち、戦うことでシアワセが来るというのは、単なる幻想である。戦うから勝敗がある。勝って勝って勝ちまくり、それでもって成功者になるという論理である。しかし、これは幻想である。
本当のシアワセというのは自分にしかわからない。自分が、楽しく生き生きとしていればシアワセなのである。少なくとも他人との比較の上で成り立っているものではない。
隣のおっさんより金持ちだからシアワセなのかと思っていたらアホである。
あるいは隣のおばさんより、きれいだからシアワセなのかということである。きれいだとか、なんとかというのも比較の対象でしかない。そんなもん、生きる上ではなんの関係もない。
それに、ボキは他人にどう思われるかというのも関心がない。ボキが美男だと思われているかもしれないとは、まったく思っていない。髪の毛も関心がない。だって、ボキの頭には毛がないからだ。無の境地である。
わははっはははっはははっはははははっはははは。
つまり、比較しないということである。比較するから、辛くなる。ダイアモンドは、勝手に輝いている。それを暗くすることはできない。生まれついての性質である。いわば個性である。
頭が良いとか悪いとか、銭をたくさん持っているとかいないとか、高そうな洋服をたくさん持っているとか、高級車に乗っているとか←そんなもん関係ないではないか。
ボキのように挫折したジジイだって、ちゃんと生きているのである。もっとも、挫折したからこそ今がある。一番最近の挫折は、博士になれなかったことだ。まるっきり山月記である。なにか勘違いしていたから、挫折したのである。
でも、ボキは今が一番シアワセである。
ダイアモンドのように、勝手に輝いているからだ。
今夜も学習塾に行く。昨日も行った。ずっと面倒みてきた高校生が公務員試験に合格したので、実に昨日はうれしかった。
そんなささやかな喜びで満ちあふれているのだ。
ヾ(*´∀`*)ノ