楽しければ人生は楽に生きられるちゅうもんですなぁ。マジに。
ボキの前半生は他の選択肢はなかった。能力や適性から考えてみて、他にやりたいこともあった。否、やってみたいことがあった。今では笑い話であるが、美男だったら役者もやってみたかった。学芸会では率先して自分から出ていたのだ。戯作者もである。なにしろ、作り話が得意であった。なんということもない。嘘つきだったからである。いわばオオカミ少年だったのだ。
しかし、とうとう定年まで同じ仕事をやってしまった。後悔はない。そういう運命だったのだ。そして、なにより適性があったのだ。そして現在も同じような仕事をやらせていただいて、ぼけ防止になっている。某大学、二つの高校、学習塾、交通安全講話とやっている。以上は有償のもの。ボランティアで歴史の会。
全部、「頼まれごと」であった。いつの間にか、こんなにやらせていただいている。感謝している。そうなるようになっていたのである。
こんなボキでも夢はあった。博士である。博士になりたいとは、今となっては笑い話である。てめぇの能力を知らないで、大学院博士後期課程に入学したからである。こんな笑い話は金輪際ないだろう。そして、大金を投入したことだけは後悔している。理解のあった古女房殿にも感謝しているが。
そもそもがである。仕事をしながら、別の大学大学院で修士をとってしまったのが、勘違い人生をスタートした根本の間違いであったのだ。
もしかして、俺にでもできるのではないかと勘違いしてしまったのである。
しかし、博士はかなり難しいことであった。内容がである。量的には書けた。A4で五〇〇枚以上はできた。事実である。嘘ではない。でも、内容が駄目だった。テーマである、日中比較芸能というのも頓挫した。なにしろ中国に行っている時間がなかった。中国語もおぼつかない。
こんな状況では、話にならなかった。
ま、あきらめるのにだいぶ苦しんだけどねぇ。このブログにその思いをぶつけて、やっと断念できたのかもしれない。
これまでも挫折はずいぶんしてきた。大学学部入学もまさかの展開であった。亡父亡母が学費を出してくれなかったから、新聞配達した。いわば、苦学である。
ところが、こいつが実に薬になった。思い上がった小僧っ子に世の中の厳しさを知らせてくれた。ありがたかった。お客さんにも励まされた。大学生なの?ときれいな奥様に励まされたこともある。がんばってねというお言葉に、我知らず涙したこともあった。
今では、実に懐かしい。
そして、それもまた他の選択肢はなかったのである。こういう人生を送ることになっていたのである。
これからもそうだ。
他の選択肢はない。
余生は、源氏物語を私家版で訳して楽しむつもりである。昨日からノート作りを開始した。生涯現役で講師もやりたい。オシャレを十分楽しんで、まだ生きていたのかと言われるほど、しつこく生きていきたい。
こういうのは、すでに決まっていたのだから。こうなる運命だったのだということである。
どうせ最後は死ぬ。
絶対的な事実である。
だったら、思う存分楽しんでジジイ生活を送るつもりである。
今日も千葉市に出かける。会長代行をさせていただいている歴史の会がある。千葉市民会館で10時から会議である。それから文化講座と古文書講座を所属している団体で開催する。楽しみでもある。趣味だし。
喜んでくださる方々がおられるから、いそいそと出かけるのである。その方が人生楽しい。楽しければ楽に生きられる。
わはははっはははっははははっははははっははは。
(^_^)ノ””””