自分の置かれた場所が一番わからないですねぇ。何気ない日常こそがシアワセでありますが。
海の中にいる魚には、海の姿がわからない。今、シアワセな人はシアワセの姿がわからない。何も事件が起こらず、静かで平穏な日々こそがシアワセだということが、我々凡夫にはわからない。だから、日常が不平不満だらけになってしまう。そういうふうに感じてしまう。あれもこれも欲しい、しかし銭がない。どうするんだい?となる。
九十九里浜は、食料自給率日本一の地域を抱えている。魚も獲れるし、野菜も多い。なるほど、そう言われればそうだ。
このことは某大学大学院を中退せざるを得なくなった後に入学した老人大学で知ったことである。講師の先生から教わった。
ところが、それまで食糧自給率がそんなに高いということを知らなかった。
毎日のようにいただいている新鮮な魚がありがたく見えてきた。米もそうだ。九十九里浜からちょっと内陸に入ると、多古米ブランドで有名になってきた多古町の米もある。これは実においしい。
野菜もそうだ。白菜をはじめとして、いろんな野菜や果物があるのだ。
言われてはじめて気がついた。住んでいると日常のありがたさがわからないのである。
意識していないから、気がつかないのである。「何もない」日常で「静かで平穏な日々」を送っているから、気がつかない。
人生は、波瀾万丈こそがおもしろいという方々もおられる。退屈しないからである。いろんな小説も、波瀾万丈であればあるほどおもしろい。司馬遼太郎しかりで、歴史上の人物はまさに波瀾万丈であるからだ。今、NHKでやっている西郷隆盛もそうだ。まさに波瀾万丈。
でも、だからなんだと言うのだ?と聞かれたら答えに困ってしまう。
どっかに波瀾万丈に憧れている自分がいるのかもしれないと思うだけである。
それだけ、日常が退屈なのかもしれない。
退屈だというのは確かに認める。毎日が退屈でしょうがないのである。同じ事の繰り返しで過ごすことよりも、合計五つのアルバイトで過ごしている方が確かに生き生きしてくる。それは認める。
それでも、この退屈な日常こそありがたいことである。実にありがたい。ただし、それに気がつかないだけなのである。
気がつかないということは、目に見えていないということだ。見えていないというよりも、見ようとしないからだ。
何もない日常というのは、隠れているのだ。聖人のごとしである。聖人は深山に隠れていると言うではないか。
ま、その逆もあるだろう。我々庶民の生活にも隠れているかもしれない。長屋のどぶ板の片隅におられるかもしれない。
昨夜は、孫の女児に一升餅を背負わせて祝いをやった。むろんボキの茅屋である。正確にはまだ一歳になっていないが、あと4日で一歳になる。丈夫で健康に育って欲しいからである。
せめてのジジイとしての願いである。
こんな何気ない日常こそシアワセである。
ヾ(*´∀`*)ノ