自分探しの旅は、無駄だとまでは言わない。しかし、本当の自分というのは、今現在の自分でしかないとも思うのだが・・・。
昨日、仙台で授業をやって欲しいと頼まれた。通信制高校の方である。頼まれごとは物理的に不可能でない限り引き受けることにしている。快諾した。年末である。困っているから、ボキごとに依頼してきたのだろうから。
そんなもの引き受ける方が**だとも家人には言われた。そして思った。果たしてそうだろうかと。**には「馬鹿」という文字が入る。事実ボキは馬鹿でもある。それは認める。しかし、この話は相手が困っているからである。それに仙台に相手のカネで行ける。仕事だからである。楽しいではないか。ワクワクしてくる。おいしいものをいただいて、夜の仙台を満喫してくるつもりである。と、言っても居酒屋程度でしかないが(^_^)。
それで思った。
会社等で不平不満があったら、すぐ退社する御仁のことである。次から次へと転職を繰り返していく。それがキャリアアップにつながるのなら結構だろうが、たいていの場合はそうではない。会社にも、自分にも不平不満があるのだ。
今の自分を許せないのだ。あるいは、今の会社を、上司を、組織を、人間関係を。
もっと言えば、今の自分はこんなんではない、本当の自分はあちらにある、あそこにあるという自分探しの旅に出ているようなものだ。今の自分というのは、ソトの世界にはいない。今まさにこの自分が、本当の自分なのである。将来の自分ではない。過去の自分でもない。
なにか天命や使命があるはずだ、こんなうらぶれた人生なんか俺の私の人生ではないとやっちゃぁいけない。他人の生き方をうらやみ、なんか今の自分はこんなんじゃないと思うのも不平不満の表れでしかない。
目の前にある仕事を淡々とやっていることが、一番すばらしいのである。
だとしたら、必ず仕事で頭角をあらわしてくる。豊臣秀吉が良い例ではないか。信長の草履をふところであっためていたのもそうだ。それだけ、仕事を楽しんでいたのである。天性の明るさもあるだろう。明るく笑顔で、積極的に生きていると活路が開ける。信長もそういうところを見ていたのであろう。
クラ~~~~イ顔して、今の仕事は自分にはアワナイから辞表を書くというのではいけない。じっと耐えることである。それでもどうしようもなかったら、実際の行動に移すべきである。考えもしないで、衝動的に辞表を書いちゃいけない。
それに、やたらと会社の、上司の、同僚の悪口を言わないことである。そんなもん、言ってもなんにもならない。悪口を言わなければならないほど、嫌いなら相手にしないことである。表面上は。
淡々として生きるというのは、そういうことでもある。要するに、他人は他人、自分は自分なのである。
今日はこれから塾の研修会がある。午前中である。じっとしてひたすら傾聴してくる。なにをご指導くださるのか、今から楽しみである。立場と目的が違っているのだから、教育についてどんな考えを持っておられるのかというその一点においてである。
歩いて行ってくる。仙台とは違って近いからである。
運動のために。
わはっはははっはははっははっははははっはははっははははっは。
ヾ(*´∀`*)ノ