変幻自在、自由自在、一定の形にとらわれない「楽しい」人生でありたいもんです。
「水のように自由に生きる」ということを理想にしてきた。柔道も水をヒントに嘉納治五郎先生が創始されたと聞いたことがある。もっとも、ボキごときが柔道について語る資格はない。たったの四段でしかない。素人である。
太極拳も語る資格はないが、こちらも水のような美しい動きが核となっていると受け取ったのだ。なにしろ、堅い体から力みが抜ける。これは気持ちがいい。蹴りの角度も増してしまった。今では、相手のあごを直接狙うことも可能になったのだ(^_^)。
水には形がない。箱に入れれば一応の形にはなる。しかし、それは器の中にある水本来とはまったく関係がない。水は、水でしかない。
水は変幻自在である。川にもなるし、海にもなる。
ゆっくり流れている時もあれば、急流になって流れる時もある。滝のように上から激しく流れる時もある。台風が来たら、暴風雨となって荒れ狂う。
つまり、水は状況にいかようにも変化するのである。置かれた状況、形になり続けるし、変幻自在でもある。
それは、水は液体でもあるし気体にもなるということである。熱してみれば、水は気体となってしまうからである。
水温を下げれば氷にもなる。動きにくい状況になると、固体となって動かなくなる。
つまり、目に見える氷、手に取ることができる氷から、水蒸気までいろんな形に変化してしまうのである。
水は、相手の器に合わせてしまう。相手が大きければ、そのようになる。相手が小さければ、またまたそのようにあわせてしまう。量は別としてである。
変幻自在というのはそういうことである。相手にあわせてしまうのである。相手が望むように、自分の形を変えてしまう。本質は別としてである。本質はなんにも変わらないのにもかかわらず、形だけ変わってしまう。
だから、「ナニガ正しいのか?」「間違っているのはなにか?」とか、政治問題とか社会問題を糾弾して、オノレの心が暗くなるより考え方を変えてしまった方がずっと良い。
相手を変えるのではないのである。相手をコントロールしようとすればするほど、相手は意固地になってくる。拒絶してくる。耳を貸さない。聞いてやろうという気持ちもない。
相手を自分の思うとおりにしてやろうと思わないことである。
そんなことをやっているよりも、自分が「楽しい」と思うように生きることである。自分が楽しければ、すべてが上手くいく。円滑に回っていく。自分が楽しければ、トラブルもない。相手を傷つけることもない。
そして、「淡々と生きる」ことである。他人を指導しようと思わないことである。他人は他人。ボキはボキ。他人のために生きているのではないからである。他人の期待に添って生きているわけではないのだ。
ふむ、ふむ。
今日も天気が良い。
今日もやることがない。
英文法のノートでもとることにしている。
明日はバイトで行っている千葉市の某高校で授業をやるが、その下準備は昨日で終わっている。「土佐日記」である。古文書から資料を作って正解資料も準備した。土佐日記史跡も動画で準備した。関連資料が、A4で二〇枚ある。これを配布して、生徒に調べさせるつもりである。まさに灘高校の橋本武先生流である。
笑われるけど。
(。・_・)ノ