捨てて捨てて、捨てられて。棺桶に入るころには、できるだけ軽い方がよろしいようである(^_^)。
人生の後半は固定観念を捨てることだなぁとしみじみ思う。
だって、もう関係ないからである。すべてである。仕事もしていないし、どっかの学校や大学に行って勉強しているわけでもない。こだわりがない。なんにもない。
ついでに言えば銭もない。あ、髪の毛もない。つるつるである。見事なくらいにつ~るつる。
組織にも所属していない。
趣味の世界では所属している。歴史の会や柔道の会である。それだけである。退職なんとかの会というのにも属しているけど。思い出しても手の指数本である。アルバイトの方は、組織に所属しているのではないから、数のうちに入らん。アルバイトを入れると9本になっちまうが。
このことは未練を捨てているようなものである。
本来ボキはあまり未練がない。なさ過ぎて、困るくらいにない。天涯孤独だからだ。九十九里浜にはボキの亡父と亡母の親戚は一人もいない。ボキの長男は住んでいるけど。孫も。
「死」の側から人生の後半を見つめているようになったから、未練がないのかもしれない。
後は、死ぬだけと思ったら気軽である。本当に後は死ぬだけである。
安らかに死にたいものである。トラブルなしに。
平穏無事が最高である。
事故死だけは避けたいものだが。しかしどうなるかはまったくわからん。どうなるかはわからんが、死ぬことだけは絶対に確実である。死んだらどうなるのかもわからん。生まれ変わって、なにかになるのかもしれない。それもわからん。悪行三昧であるから、天罰が下るかもしれん。そうなったらなったで、仕方なし。
だから、いつでもその覚悟で今を生きている。明日には、灰となっているかもしれないではないか。
したがってウカウカしていられないのだ。つまらんことにこだわって、成就するわけもない夢を追いかけていたらアホである。
そんなもん捨てることである。
自分はこれがしたかった、やりたかったというのが無くなってきた。某大学大学院在学中にはあった。博士になりたかった。でも能力不足で頓挫した。挫折した。もう二度とそういう夢は見ないことにした。
以来、ボキは変貌したのだ。
受け入れたのである。
受け入れるまで、大変苦しかったけど。なにしろ大金かけて居住地に近い某大学大学院までせっせと通ったのだ。
アホだった。アホと思うのは自己分析が不足していたからだ。自分を知らなかったのである。
能力もである。
これって、てめぇの顔を知らずしてドンファンを気取っているのと一緒ではなかったのか。
そういう「固定観念」を捨てることによって、ボキは実に身軽になった。体重まで軽くなった(^_^)。10キロ以上も軽くなった。運動の結果である。
もっとも、元々クチも軽いし、人格も軽いんだけどねぇ。
これからも軽く軽く生きようと思っている。
なにしろ、棺桶に入るには身軽な方がよろしいからである。
わははっははははっははっはははっははははっははは。
今日も千葉市に行っていた。某高校で授業をやってきた。楽しかった。若い人々と接していた。さらに今日の夜は塾である。こっちも楽しい。未練がないからすごく楽しい。明日はクビになっているかもしれないからである。こだわりがないからである。
(^_^)ノ””””