【武田邦彦】レジ袋有料化の闇!奴らがまた動き出しましたね。同じ闇の住人であるマスコミは今回も"真実"は報道してません!
某国が謝罪を要求している。ニュースでも盛んに紹介される。ま、このことに関してはあまり深入りしないようにしよう。しかし、謝罪ということはなんなのかと、今朝歩きながら考えていた。付箋を持ちながらである。ときどき立ち止まっていたが。メモをするためにである。
早朝の歩きメモは、実に体に良い。なぜなら、良く歩くからである。いろいろと考えながら歩いていると、次から次へとアイディアもわいてくる。これが良いのだ。これが。
謝罪というのは、ある特定の行為、行動に関して相手側に求めるものであろう。それは間違いない。
償いというものにも関わるものなのだろう。
償いと言えば、テレサテンの歌にもあった。こっちは「つぐない」である。歌詞も良い。
「窓に西日が当たる部屋は、いつもあなたのにおいがするわ」で始まる。そして、一番の真ん中には、「愛をつぐなえば、別れになるわ」とある。実に叙情的である。
むろん、ボキには、こんな体験はまったくない。お呼びでない。それに、つぐないのような女性にも会ったことがない。会えるわけもない。そんな気もない。
しかしである。「愛をつぐなえば別れになるわ」という歌詞が気になる。そこにはやましい気分があるからだ。
そもそも愛欲というのは、つぐなうようなものなのだろうか。これまた、経験がないからなんともコメントしがたいのであるが。
そして思ったのが、冒頭の朝歩きである。償いということである。こっちは漢字に変換しての償いである。
思うに、償いというのは二種類あるのではないのか。
一つは精神的なものである。贖罪の意識を持って、生涯謝罪するような意識である。もっとも贖罪というのは、辞書によると以下のように書いてある。
(1)金品を出したり,善行を積んだりして,犯した罪をつぐなうこと。また,刑罰を免れること。
(2)キリスト教で,人々の罪をあがない,人類を救うために,イエス-キリストが十字架にかかったとする教義。和解。
(2)キリスト教で,人々の罪をあがない,人類を救うために,イエス-キリストが十字架にかかったとする教義。和解。
以上である。そして気になったのが、(1)に書いてある「金品を出したり,善行を積んだりして,犯した罪をつぐなうこと」の方である。
だから二つ目は、「物質的な贖罪」ということなのである。金品がかかわるというものである。要するに、ゼニのことである。謝れというのだから、金品のやりとりがあったら相手を許してあげようというものである。つまり、ゼニが欲しいのだ。世間一般的には、こっちが多いのだろう。離婚や、慰謝料のケースもこっちである。現実的な解決としてはあり得る判断であろう。
某国は謝罪せよといつまでも言ってくる。金品のやりとりをしても、まだまだ要求してくる。精神的な謝罪ではもの足りないようである。
しかしである。相手のシアワセを祈りつつ、贖罪意識を持って生きていくのも重要なのでは無いのかと思った次第である。
テレサテンの「つぐない」にあるように、「別れ」を意識しながら生きているからこそ、我々は日々を生きていくことができるのだろうから。
私的な制裁、復讐は認められていないのであるから。仇討ちもダメである。
そんなことを今朝は思ったのだった。
BYE-BYE!