赤とんぼ 由紀さおり 安田祥子 歌詞付き 童謡
芭蕉というのは、かなり尊敬されている。好きな方々も多いだろう。ボキもそうだ。ふるさとの山寺や最上川も出てくるから、いつのまにか暗唱して喜んでいた。
しかし、「猿蓑」に出てくる
憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥
という俳句を見るに至っては、生命観の躍動がなくなっている。元禄2年9月6日~9日。『奥の細道』の旅を終えて、大垣から伊勢遷宮参拝に行く途中曾良の伯父の寺三重県長島の大智院に3泊投宿して作られた俳句である。もとは、
憂きわれを 寂しがらせよ 秋の寺
であったそうな。
あくまで寂寥なのである。寂寥の世界から抜け出ていない。しかも孤独な芭蕉がいる。ただし、妙な宗教的感傷もただよっている。光明が期待されている。
ボキは俳句のこともよくわからないのだが、芭蕉の宗教的な感傷にいたっては、あまり感心しない。
しかも、折口信夫は、芭蕉がこの俳句にも挿入している仏教的精神を批判しているのである。だから、アララギの手法を批判しているのだ。つまり、古代人にあった孤独と悲嘆と寂寥の中に、歓喜と感謝と光明の仏教的精神を取り入れることによって、歌の伝統を軽薄なものにしたと言っているのである。
「他力生活を知らなかった古代人には、孤独は孤独であり、感謝は感謝であった。『無即大』『空即色』など言ふ哲学はなかった」(折口信夫全集29巻38ページ)
もう折口信夫の言いたいことはこれでよくわかった。つまり、彼は自分自身も古代人であろうとしたのである。このような古代人が思ってもみなかった哲学を短歌に持ち込もうとしたアララギの人々が許せなかったのだ。寂寥と光明は没交渉であって、それを持ち込んだ短歌の世界にアレルギーを感じていたのであろうと思う。
ただし、折口信夫は短歌を消滅させようとしたのではない。あくまで短歌のためを思っていたから警告をしたのである。このあたりが、彼の偉大な部分である。哲学が短歌を滅ぼすと言っているのである。乾燥した哲学が、短歌の息の根を止めると言っているのだ。生半可な日常的感傷が、あるいは哲学が、短歌のためにならないということを言っているのだということである。
もっとも生半可な・・・なんて言い始めたらボキなんかそういうことを打鍵する資格もないのだが。
令和の時代になって、万葉集が注目されてきた。これでもって、もっともっと学ぶべきことが増えている。うれしいことである。やることがたくさんできたからである。
BYE-BYE!