短歌や和歌の伝統に比べて、演歌は低俗だとか大衆芸能だとか言われてしまう。
たしかにそうだろう。千年を超える伝統に支えられた短歌や和歌は、それだけで古典的評価を確立している。叙情というモノを確立してきたのである。演歌ごときに太刀打ち出来るわけがないではないかという評価はある意味正しい。
しかし、演歌も捨てたものではない。
なにしろ、大衆のものだからだ。大衆の悲しみを歌っているではないか。古典的評価を確立しているのならば、ボキのような庶民にはとっつきにくい。高校とか大学で教えるには、十分なのが和歌や短歌である。演歌はどうだろう。高校で、あるいは大学で、教えるに値するのだろうか。ボキは、そんな学校もあって良いと思っているのだが(*^O^*)。
なにもクラシックだけが、音楽教育では無いとも思っているからである。
千年を超える歴史と伝統を誇ってみても、発生は演歌と変わらないではないか。なぜ叙情を訴えるのが和歌や短歌であったのかと思うと、そこには必然性があったからである。万葉集はその点で優れていると思うのだ。なぜか。作者が貴族だけではないからだ。大衆のものである。
悲哀がある。大衆の。
これが愛欲まみれのどろどろした内容ではゲップがでる。貴族の遊びなんぞどうでも良いではないか。なぜなら、ボキは大衆だからである。
演歌の評価が、低俗だとか、大衆芸能だと言われて低いのが気になるのだ。そんなに貶めて良いのだろうか。大衆が歌を歌いたいという心理は、今も昔も変わらないのではないのか。
反社会的な歌を歌って流行に乗った歌手もいる。尾崎豊という歌手だった。あるいは、そういうやんちゃなポーズをとることによって、反社会的な行動をとっている若者に受けている歌手もいる。非常によくわかるような気がする。
かしこまって考えることはない。
歌いたいから歌うのである。こころに、訴えたいものがあるから、歌ってみるのである。
それで良いではないか。
なにもかしこまっている必要も無い。
さ、今朝も歩きながらイヤフォンを耳に差し込んで美空ひばりを聞いていた。危なくは無い。だって、たんぼ道を歩いていたから。
わはっはははっはははっははははっはははっはははっははははっは。
BYE-BYE!