人生を楽に生きる方法【精神科医・樺沢紫苑】
居住地は、朝から雨である。したがって、歩きに行けない。早朝徘徊である。断念した。
断念した代わりに、どっかに行って歩いてこようっと。ジムにでも行くか。会費を払っていないんで(今月分だけ)、再開すれば良いだけだ。一ヶ月2000円もかかるが。それから、午後佐倉に行けば良い。佐倉には、バイトである。夕方4時に。こっちも楽しみである。
歩いているから、そして酒を呑んでいないから、体重が71.3キロになった。今朝のことである。体重計、そっと乗ってもデブはデブという心境がよくわかっていたのであるが、今は実に楽しみである。おかげさまにて、快調である。
このまんま余生を送っていきたい。もう送っているけど。健康なままにである。健康がなにより大事である。病気はお断りである。だって、生きていても楽しみがなくってしまうではないか。でも、なるときはなる。病気にである。そのときは、ジタバタしてもしょうがない。ドクターにすべてをお任せして、寝ているしかない。でも、あれだったなぁ。某大学大学院在籍中、3年生の時だった。ICUに入っていて、あの時ほど、ベッドに縛り付けられるのが辛いと思ったことはなかったなぁ。なにしろ時間のたつのが遅いのだ。一分が過ぎていくのがとても長いのである。周囲には死にかけている方々がいくらでもいたし。
もうあんな体験はしたくない。だから大学院も中退したのである。死生学というのを修士課程(こっちは卒業した)で学んでいたが、まさに実践だったよん。
人間はいつまでも生きているわけにはいかないというのは、アタマではわかっていた。しかし、実際に「死」を目の前につきつけられると、あわてふためいた。もう、これで死んじゃうのだと思うと、情けなかった。充実した生き方をしていなかったからである。さらに、ドクターにもなれなかったからだ。
トホホ。
「生」のことしか考えていなかったからである。しかも、「生きる力」を標榜する文科省の指導のもと、若者たちにもそういう指導をしていた。たしかに、生きる力は大事である。でも、学校教育には死の教育がない。人間には、生と死の両面があるという視点が欠落している。
塾だって、大学だって、生があるから成り立っているようなもんである。塾にいたっては、どこの高校や大学に進学させたかという視点しか無い。大学もそう。就職のことしかアタマに無い。
ボキにとっての進路?
それは実に簡単明瞭である。死である。死ぬだけである。まっしぐらに、人生の終焉を迎えるのだ。それまでどうやって生きるか。それは今のこの瞬間を大事にしていくしかないのである。
こんなダメブログなんかやっていないで、本でも読んでいたほうが良いのかな?
わははっははははっはははっはははっははあっはははっはははっはは。
BYE-BYE!