#80 障害年金っていくらもらえる?受給の条件は?所得制限がかかることも?
ボキは、現役の職業人だったころはカラオケをよくやった。社交だと思っていた。今は、そんなことはない。呑む席には行くことがあるが、たまにである。だからおもしろくもなんともないジジイである。
しかし、こんな風になるとは思ってもみなかった。友人と会うのが楽しみでもあったからである。今は、できるだけヒトと会わないことにしている。アルコールがからむからである。それほど好きだったのである。残念ながら。
なにが残念だというと、ボキはそれで人生を失敗したからである。健康を害したからだ。
最近は、結婚式も神前とかでやららない。友人の前で誓い合う。しかし、ある種の危惧がある。友人の前で誓っても、そんなの破り捨てられてしまうではないか。
だから離婚が多いのでは無いのか。
友人なんて、ある一定の距離があって初めて友人なのである。神とか仏とは誓う対象が違う。だから真剣味が不足しているのである。
ま、これくらいにしよう。
で、カラオケのことなのである。歌のことなのだ。しかも演歌である。ボキはこれくらいのタノシミは持っているからである。
つまり、歌がヘッドフォンの中に閉じ込められて、空中を飛ばなくなったということなのである。
阿久悠という作詞家が、「前略 歌が空を飛ばなくなったと申し上げたことがあります」と、「書き下ろし歌謡曲」(岩波新書)に書いているのだ。「近くには、ミュージックはあるがソングはない」とも。
あっと、驚いてしまったのだ。
そう言えば、老若男女ヘッドフォンというか、イヤフォンというか、そんなもんを耳につけている光景が目に付く。電車の中でもスマホ全盛である。なかには、自転車に乗りながらスマホで音楽を聴いているのもいる。危ないこと限りなし。
ボキは、そういうミュージック全盛の時代にあっても、演歌が好きである。つまりソングが好きである。
特に、美空ひばりが大好きである。
ある種独特の悲哀感がただよっているではないか。名曲「川の流れのように」もそうだ。人々の胸の内に浸透し、その内向する心の扉をこじ開け溶け込んでいく。
世代を超えて、感情の高ぶりや不安を慰めてくれる。悲哀感というのは、母心のようなモノなのかも知れないとボキは思っているのだけれど。
比べて短歌や和歌はどうだろう。
短歌や和歌は、文学のカテゴリーに属していて、ある種高尚な構図を持っている。同じ感傷を扱っても、短歌や和歌には一筋の清流のごとき感じすらする。同じ愛や、死を悼み・・・ということですら、高尚になってしまう。
比べて演歌はどうだろう。底流に流れる軽薄な遊戯という感すらある。恨みとか未練、恋情などの解毒作用を持ったソングでしかないとされてきた。
しかし、ほんとうにそうだろうか。
短歌の勇者である斎藤茂吉と、美空ひばりを比べてみても、まるで違う。斎藤茂吉の場合は、上品・高等、美空ひばりは通俗だと言ってさげすんでも良いのかと感じてきたからである。
「悲しい酒」という名曲なんかには、人生の真実がある。
ううううううううううううううううううううううううううむ。
あれ?
2000字になろうとしている。
止めよう。
またこの続きは明日打鍵してみるけど。
BYE-BYE!