「人生に、文学を」オープン講座 in 神戸女学院大学 2017年6月10日(土)第8講 内田樹さん「身体と知性」
自己評価というのは、最初から低く設定していた方が安心である。平穏な気持ちで生きていくことができる。逆に、オノレは秀才である、優秀である、使える人間である、美男美女でモテテモテテ困るくらいであるというような自己評価では人生を誤る。他人がどう思っても、オノレはオノレ。どう思われようと関係ないではないか。
こう思うようになれるまで、時間がかかった。迷っていたからである。執着していたし、ボキも自己評価だけは高かった。もしかして、博士になれるのではないのかと勘違いしてしまったのもこれだったよん。
今ではお笑いぐさである。
こういう自己評価だと、基地外になっちまう。山月記の主人公のようにである。獣になっちまう。
愛欲もまた然り。獣性というものが、誰にでもあるからだ。日本古典なんかは、獣性のかたまりであるし。全部がそうだとは言わない。一部である。しかし、貴族文学というやつは愛欲の精神史でもあるからなぁ。ボキとはまったく縁の無い世界だから、たいつくで仕方なかった。これもまたセンコー稼業で必要だったから仕方なく読んでいただけであった。とりわけ源氏物語。しかも、こいつは長いと来ている。
わははっはははっはははははっはははっはははっはははっは。
空想の世界に生きているわけにはいかないではないか。こっちは喰っていかなくちゃアカンから。しかも、ボキは苦学生をやってまで文学部に通っていたのだった。これもまたおかしなことであった。喰うための学問をやっていれば、こうはならなかったのかも知れない。経済学とか法律学とかのことをさしている。事実、住み込みで働いていた新聞店には、そういう学部の苦学生がたくさんいた。苦学の身から抜け出していきたいという志があったからである。今でも、たいしたものだったと思う。ボキ以外の苦学生たちがである。
ミンナ年をとって、どうやって生きているのだろうと思う。
懐かしいなぁ。
会ってみたい。元気かなぁ。中には、亡くなった方もいるかもしれない。そして、ボキはしつこく生きている。まだ当分死にそうも無い。大腸カメラも異常なしであったし、すこぶる元気である。
そういう自己規定のもとに生きている。
いくつかやっているバイトでも、低評価だし。気楽に生きている。なにも今更評価を高めていただいて、なにをすると言うのだ。
孫のような子どもたちに囲まれて、バイトをさせていただいているだけでも感謝である。
よくまぁ、こんなバカジジイにバイト代を払ってくださると感謝している。それだけでもありがたいかぎりである。
あり得ない話では無いか。
今朝も歩いてきた。昨日サニブラウンの100メートルの録画を見ていて、寝たのが遅かったから起きるのが辛かった。でも、4時40分には歩き始めた。ブラブラ歩きである。健康になったのは、これだ。思うに、新聞配達していたときもこの時間には自転車に乗って配達をしていたなぁと思った。歩きながら。
だからこんなことを打鍵してみたくなったのである。
低評価ジジイここにありである。
BYE-BYE!