【武田邦彦】仕事が全部飛びました。ヒマになった私がやった13のことを今回はお話します。なぜ私はそこまでするのか?実は深いワケがあるのです・・
能を見るのが好きだった。今まで何回も見てきた。難解だから何回も見てきた。
能は、主人公をシテという。脇役をワキという。そして、主人公は恨みや苦悩を背負っている。人生にも負けている。異界の中で恨み辛みをクドクドと述べていく。確かに、人生はつらいことが多い。ましてやコロナである。突然襲ってくる。理不尽である。そんなものに人生を振り回されたくはない。
人生は理不尽なことも多い。それはそれで確かである。学歴社会から敗残したボキも相当な理不尽を味わってきた。会社や組織に入っても理不尽なことは多かった。恋愛もやったことがなかったし、第一そういう華やかな生き方はボキのようなアホには無関係であったからだ。
それで自分探しをしていた時期もある。大型のオートバイでツーリングをしていたのは、そういう理由もあったのだ。
でも、自分探しをしてもそんなもんどこにも無かった。以来、自分探しなんか止めてしまった。ずいぶん遠回りをしてきたもんである。今、ここにしか自分はいなかった。アイデンティティも無かった。だから、そういう横文字は嫌いになっちまったよん(^_^)。
つまり能を見ていても、主人公のシテしか目が行っていなかったということになるからだ。一面からしか見ていなかった。表面だけ。華やかな衣装とか、謡いにばかり目が行っていた。
能にはワキというのがいる。仮面をつけていない。これは諸国一見の僧侶となっている場合が多い。ほとんど、言葉を発しない。そして、シテの苦悩を舞台のワキでじっと見つめている。
まるで苦悩するシテを患者にして、それをじっと見つめるカウンセラーのごとしである。不思議な存在である。
そこで、あっと思った。
ワキの生き方というのは、ボキそのものではないかと。
じっと見つめているしかできなかったけど、苦労している子どもたちにはなんらかの手伝いにはなったのではないか。そう思ったからである。事実、苦学をしてでも大学に行きたいと言っていた子どもたちはちょっとだけでも助けになったからである。
今朝、早く起きてパワーポイントでワキのことを打鍵していた。むろん、歴史の会でボキが話をするからである。「能の精神史」というタイトルである。それに、代役もいつでも可能なように、あらかじめ作っておく必要もあるからだ。
人生や世の中の主人公(シテ)にはなれなかったけど、ワキならいつでも出来るからねぇ。今でも。
BYE-BYE!