と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

銚子半島の池

2008年10月14日 19時40分05秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 校内に銚子半島を形どった池があります。
 この写真がそうです。ちゃんと犬吠灯台もあります。
 銚子大橋もあります。
 
 どうですか?
 じっと見ているとわかりますよ。
 じっと見てください。
 右側に屏風ヶ浦も見てとれます。
 左側に利根川も見えます。

 池の中にはある生物も棲んでいます。
 何が棲んでいるかは、入学してからのお楽しみです。

 
 さて、いよいよ二学期も折り返しに近くなってきました。中学校の勉強、たいへんですね。がんばってください。進路も決めなくてはならないし、応援するだけですが。手伝うわけにもいきませんし。

 中学校の先生もわたくしは長いことやっておったので、だいたいは知っているのですが、中3の時期はこころが休まらない日々でしょう。先生方も、保護者の方もです。本人が一番でしょうけれども。

 今朝、ちょっと読んでいた本の中に、進路学習はつらいけど、堪えなくちゃならない面もあって、それが成長させるんだとありました。逃げるのは誰でもできますが、堪えるのは人間だからできるわけです。確かにわたくしの愛犬も堪えるのは苦手なようです。諦めるのは、いつでもやっているようですが。つまり、諦めるのはワンちゃんでもできるということです。

 なんか、実にいい話を読んだような気がしました。

 あと少しですね。

 がんばってください。

 また明日。


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オーロラ

2008年10月13日 18時51分33秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 フィンランドという国では、オーロラが見えるのだそうですね。パスポートすら持ちあわせていないわたくしは、成田から出国したことはたった一回のみ。前任校の成田北高校には空港関係の保護者もおられて、PTAの連絡にロンドンにメールをとかという場面もありましたっけ。パスポートもないというのは今時天然記念物だと笑われたこともありましたが、それだけハードな仕事の連続でありましたから。遊びに海外に出かけるというのはまったくないのです。これからもないでしょうけれども、残念ながら。

 最近の大学は欧州まで遠征に行きます。こうした形で若いときに経験の幅を広めておくというのは大変すばらしいと思います。

 しかし、自分の方からその経験を得るかも知れないというチャンスを捨ててはなりません。
 
 昨日の柔道大会で、選手が中学の顧問の先生の指導を受けずに教室の指導者の指導を受けているのを見て、ちょっとそれは違うだろうと感じたものですから。

 教わる方が師のことを、素人だとか言っていたら話になりません。厳しく言ったら教室の指導者だって素人です。世界レベルの人間は誰もいないからです。ま、警察関係者とか、複数の県チャンピオンとか、専門大学の出身者とか、100キロ以上のクラスの指導者がたくさんいて普通に見ればかなりのレベルではありますが。武道というのはそれだけ厳しい世界です。ですから、自ら指導を受けるチャンスを見限ってはならんと思うのです。

 これは評価の尺度をどこに持つかという一点でかなり違ってきます。いつも言っていますが、進学高というのは評価の尺度をどう持つかです。井の中の蛙、大海を知らずとはよく言ったものです。ほんとうにこのことを忘れてはなりません。進学高と自称しても、相手にされていない学校は山ほどあるからです。独り相撲だけはいかんのです。心しましょう。

 さて、わたくしは、中学生の試合を楽しみに見ていたのです。そして、新しく転勤してきた中学の顧問の先生に名刺をわたしたりして、対話をさせていただきました。雑談、雑談また雑談。中学の様子もわかります。セールスマンのようなものです。大体は旧知の人間ばかりですから、会話も弾みました。ありがたいかぎりです。県銚がどう思われているかもよくわかりましたし。

 軽食が出てきましたので、審判すらやっていないわたくしは、これをいただいたら午後からも見ていなくちゃならんと思って、即、退散いたしました。えらそうにふんぞりかえっていたら笑われてしまいます。なんの実績もないからです。老害を垂れ流して、たかだか高校大学でちょこっとやったくらいで、国体も五輪も出たことなく、ましてや海外武者修業にも一度も行ったことなく・・・というレベルでは、なんでふんぞりカエリヅラができましょうか。カエルだって、ふんぞり返りすぎたらひっくり返ってしまいますよねぇ。

 謙虚でありたいものです。ほんとうにそう思います。

 最後に、死ぬまでに一度でいいからオーロラを見てみたいと思うのですが、これもかなわぬ夢でしょう。海外に出かける必然性がわたくしには全くないからです。

 では、また明日。
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黎明に思うこと

2008年10月12日 04時15分39秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 朝起きて、五分ほど軽く簡単な体操をして、それからやおら読書にとりかかります。特に闇に包まれた世界が次第次第に明るくなってくる黎明の時が本当に好ましく大好きです。野鳥が起き出し、自然界も目を覚ましてきます。頭がすっきりしているし、考えたこと、読んだことが全部吸収されるような気がしてきます。まるで禅僧のようだなと苦笑をしてしまいますが。もっとも、亡くなったわたくしの父には、お前のような者につとまるわけもないと簡単にあしらわれたことがありましたっけ。高校三年の時に、印哲をやりたいと言っていましたので。

 ところで、ものの見方、考え方を鍛えるという点で今を生きておられる学者や、それぞれの世界で頂点におられる方々の著書を読むくらいためになることはないと思っています。評価がわかれるでしょうから、このブログに書く時には慎重にしたいと思っています。ですから、亡くなった方については歴史上の人物ということで、ご容赦いただきたいと思っています。

 生きている方では、大前研一氏をはじめ、政治家も含めて多種多様の方々の著書を好んでおります。特に、世界の見方を考える上では大前研一氏のような方の著書に大きなものを示唆していただいたことがたくさんありました。マッキンゼーの経営手法など、一時期ほんとうに夢中になっていました。どうしてもすぐに欲しい彼の本があって、わざわざ東船橋の駅に近い大型書店に、事前に在庫を確認した上で、電車で二時間かけて出向いたこともあります。マスコミの語っておることに疑問を持ってものを見、考える重要性を教えていただきましたし、特に政治経済分野での分析力に傾倒していったものです。

 ところで、城山三郎が書いている『粗にして野だが卑ではない―石田禮助の生涯』、第五代国鉄総裁の伝記。もう亡くなっているので、取り上げてもいいかなと思います。

 なぜ石田禮助なのか。

 それはこの書籍の書名にあるように、まさに「卑でない」ということに大変興味を持ったからです。

 つまり、卑しくないということです。もっと言えば精神のレベル。自分自身最も大切にしたい部分です。具体的な行動レベルでいうと触れられない面もあるので詳述しません。私利私欲で生きないということでしょうか。なんでもほしがらないということにもなりますか。あるいは、誰にも知られず一隅を照らすという姿勢でのボランティア活動もその範疇に入ることになりましょうか。

 石田禮助は、勲章を固辞し続けた人です。伊豆の山の中で生まれ育った方ですから、「山猿に勲章は似合わない」と言われて、結局貰っておりません。また葬儀も伊豆の古里で本当に質素になされた。その面でも尊敬申し上げているのですが、勲章を貰う貰わないということではなく、それよりも引き際の良さにしびれるような爽快感を感じるのです。

 世の中には現在の自分の社会的評価や、役割にしがみつく方も大勢おられる。わたくしのように教員以外の世界とおつきあいいただいておると、本当にそれは感じます。批判するつもりはありません。それもまた人間の哀しい性でありましょうから。高みの見物的視点からそういう現象を見て嘲笑しているのでもありません。他人がバカに見えて、批判ばかりしている方も多々おられますが、わたくしはそれだけはできません。他人をバカにする前に、他者否定をすることができるだけの能力や徳性があるだろうかと、自分のバカさ加減を考えてしまいますから。

 今日は、匝瑳市で柔道の中高生、一般の大会があります。昨夜、わたくしも稽古をちょっとだけしてきました。中学生の男の子に挑戦されました。大きな子でした。なかなか力も強い。いいなぁ、君!と、ほめあげて稽古しました。凄い力ですねとか言われてしまったのですが、そこでわたくしは決して指導をしない。マジに闘う。対等になって・・・(^0^)/

 もう指導者面をしてもいいのですが、そこは謙虚です。側で、県警本部の特レンをやっておられた教室の指導者がニコニコ笑ってわたくしたちの会話を聞いておられたのですが、いつまでも自分も初心者のつもりで稽古なのです。唯一燃える時です。

 ですから、大家(タイカ)になって指導者面をして老害をまき散らしてはならんと思うのです。もっともそんな実力も実績もありません。所詮、みちのく奥州の山奥で熊さんと一緒に田舎柔道をやっていた素人ですから。

 体力が無くなったら去ればいいだけの話で、いつまでも社会的な地位にしがみついていたらこんなみっともないことはないと思います。

 だんだん加齢とともに体力・知識欲も乏しくなってきています。最近では老眼もすすんでおります。そこを根性だけでカバーしてきました。しかしながら、柔道界、教育界からもおさらばする時期もカウントダウンがはじまっています。去っていかなくてはならないことを否が応でも自覚させられます。特に柔道教室でも教育(つまり県銚)でも、わたくしの周囲には知徳体のPowerにすぐれた優秀な指導者がそれこそ山のようにおられる。いつでも去ることはできるという妙な自信ができています。

 石田禮助のようにやるべきことをやって、爽やかに去っていきたいと思う日々であります。


 また明日。
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楽しく

2008年10月11日 00時23分47秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 昨日の夜、千葉市でわたくしの拙いブログの熱心な読者様とお会いしていました。アルコールを介在しながら。
 
 言われました。
 
 楽しくてしょうがないだろう?って。

 当たってますね。実にわたくしの本音を言い当てておられました。

 生徒を念頭に置いておりますので、わたくしの潜在的な教師根性みたいなものが刺激されてしまうのでしょうね。ありがたい限りであります。こういう刺激の場を与えていただいて、ブログ提供のGOO様にも感謝です。

 実はこのブログをさらにさらに改良して、学校をバンバン紹介していこうと思っています。とてつもない可能性を秘めていると思うからであります。それでこそ、インターネットを最大限に活用していると思うからであります。 一時期、県教育委員会の命令でインターネットの研究職をさせていただいたことへのそれがわたくしなりの恩返しであります。

 ところが一日でも書き込みを怠ると電話がかかってまいります。

 具合が悪いのか?って言われるのです。これには参りました。毎日アップしているのに、今日はどうしたんだい?ってわけです。ありがたいです。ちょっぴりプレッシャーにもなっていますけど。ま、インターネットを通してわたくしの健康状態も心配なさってくださるワケですから感謝申し上げていますけど。

 最近は在校生まで、わたくしに言うのです。校長先生!ブログの取材ですか?って。だって毎日デジカメ片手に、授業を見させていただいておるのですからね。

 多くの方が読んでくださっているんですね。生徒も、一般の方も。そして、校長が何を考えているのかを理解してくれるんですから、こんな幸せな校長はいません。本当にこころ優しい県立銚子の生徒たちに感謝しています。

 楽しく書きながら、実は生徒とのおおいなる「対話」にもなっていたってわけです。

 本当にブログを開設させていただいてよかったと思う日々です。



 また明日。


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有縁を度す

2008年10月10日 02時53分39秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日は学校におりません。歳をとっておりますが、新米校長ですので研修があります。まだまだ何もわかっておりませんし、勉強不足ですので。

 学校のことが心配になります。しかし、教頭先生はじめ核となる先生方がたくさんおられる。これは大安心であります。しかも、現代は携帯の時代。なにかあってもすぐ連絡ができます。

 便利な時代になったものです。メールがこれほどになるとも思ってもみませんでした。メールの活用はわたくしはかなり早いと思います。あなたがたが、まだ赤ちゃん時代からわたくしはメールが教育活動に利用できないかと県の施設で研究をさせていただきました。ですから余計感慨深いものがあるのです。

 しかし使い方を誤ると両刃の剣です。悪いことに使ってはなりませんぞ。

 メールばかりで人間のつきあいをしてしまったら、それはよくないです。わたくしもそういう傾向があって、電話もあまり使わないで、仕事を進めてしまいます。直接会って、仕事はコミュニケーションをとりながらやるべきです。

 社会的交際というのはけっしてバカにしてはいけません。それを会わずにメールだけで済まそうとするとトラブルになる。稚拙な表現で、直截的な文章が多くなるから誤解も生ずる。

 これからの時代を生きていかなくてはならないあなた方に、本当に口うるさいとは思いますが、言っておきたいことの一つです。もっとも、言っておきたいことは山ほどあって、わたくしのような社会的なつきあい下手であってはなりませんぞというのも、優先的に申し上げたいことの一つでありますが。

 お情けで生きたくないと思っていたら、どうもわたくしの教師人生は最終コーナーがまさにそれになってしまったと大変反省しておりますから。

 お世話になることもあっていいのです。わたくしのように拒否し、拒否されて生きてはなりません。甘えることもあっていいのです。また、他の方をお世話することもあっていいのです。まず縁のある人、身近な人を助けることが大切ということを最も申し上げたいのです。

 「有縁を度す」という言葉は経験的にそんなことを言っているような気がしてなりません。

 誤解かもしれませんが。

 今日一日しっかり勉強してくださいね。

 いけないことしてはなりませんぞ!
 

 では、研修に行って参ります。
 

 
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思考の整理学から学んで

2008年10月09日 22時49分01秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 今日は天候もよく防災訓練を七限目に企画しています。安心・安全な学校にするのはもちろんですが、万一の場合の心構えもまた重要なことです。トレーニングをしておくのと、そうでないのとは、運命を左右します。またこのブログで紹介しましょう。

 安全というと、ITの世界でもいろいろ危険があります。わたくしは、RSSというのを使って、キーワードをいくつか打ち込んで、巡回収集させています。その中にわたくしの名前でチェックさせているのがあるのですが、当然ながら何の反応もないのです。当たり前ですが。(警戒だけは怠らず、です)

 ところが、「思考の整理学」を書かれた学者の外山滋比古先生のは、我が家のPCはよくチェックしてきます。有名ですからね。あるいはわくしのことを嫌っているのでしょうか(^_^)/

 かなり前の本だったので、書棚から出してみたら読むに堪えない。いかに保管が悪いかということなのですけれども。それで昨日買ったのでした。最近若い人に売れていると聞きましたし、こうやってぼろぼろになった古い本を再度買うのは言志四録をはじめ、時々やっています。しかながら、カードシステム(B6の京大式カード)を導入して35年近くたってしまってから、いまさらながら、ノートの効用を説かれていて大変懐かしかったのです。

 結局、読書しながらノートをとったり、カードをとったりして来たのです。基本的にまじめなんでしょうね。遅々たる歩みでしたけれども。能力に乏しいわたくしは亀のように努力するしかなかったですから。

 今回、むしろそれよりも頭のノートに書いてありますか?という文章にふれさせていただいて、これは参ったという状態でした。

 加齢とともに忘れてしまうことも多く、さらに多方面の情報収集をしなくてはなりませんから・・・・言い訳ですね。

 しかし、一度目のノート(カード)をとったら暖めておいて、熟したらその中のいくつかから2度目のノートをとるという方法はいいものです。そして、メタノートという大テーマでさらにまとめる3度目のノートはもっといいと仰る。

 実はここは最初に読んだときは目に入りませんでした。当時、梅棹先生の情報カードシステムに相当魅惑されていましたから。目がそこまで行かなかったのです。わたくしの蟻の巣のような部屋にはスチールの情報カード収納庫がデンと鎮座ましましています。貴重な思い出がたくさん詰まっていますから大切にしています。

 それで早速やってみました。いくつかある古いノートを3次情報として、メタノートとしてまとめてみました。やり方は、この文庫本を購入するしかないのでしょうけれども、古いノートを書いていた時期の記憶が読みがえりました。

 懐かしくなりました。

 ありがたいものです。

 ノートも捨てないでおくほうが賢明かなぁと思ったしだいです。


 また明日。


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防災訓練でした

2008年10月09日 20時41分39秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 今日は、7時間目防災訓練を実施しました。防災の日には印刷物でしたが。年間に二回やっているようなものです。

 地震と火災の訓練です。

 順調にできましたが、やはり小さいときからやっているから「慣れ」があるのでしょうか。私語が多いと消防署の方にご指導をいただきました。

 実際に大地震を経験したら、私語なんてとんでもありません。真剣さを考えましょう。

 それと、大都会で地震の当事者になってしまったら、銚子方面まで歩いて帰ってくるしかないのです。

 そのための体力をつけておきたいものです。普段から。

 さらに、大体の地図も頭の中に入れておかなくてはなりません。つまり道順。まったく知らない道を帰ってくることになります。

 他にも水の確保とか諸問題山積です。

 普段から想定訓練をしておきましょう。頭の中でセルフトレーニングです。


 阪神淡路大震災の被害について、神戸とか淡路島では公開施設を作って、いろいろな方に見てもらっています。わたくしも行って来ました。いまさらながら、実に恐ろしいことです。

 他人事として考えないで、もし自分が当事者になったらという訓練は自分でもできます。そんなことを考えていただきたいと思います。


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凡人教師のつぶやき

2008年10月08日 06時06分06秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 雨の中を在校生たちは、一生懸命登校してきています。感動しています。大変だなぁと思う気持ちと、今しかできないことをやっているんだよと激励したい気持ちでいっぱいです。


 今日も午後から外に出なくてはなりません。

 時間がない中でブログの更新はなかなか困難な歩みです。第一才能がない。文才が。しかし、年度末までは継続していくつもりです。どうなるかわかりませんが。それにじっくり書いていないので、アップしてから誤字に気がつく有様です。表現のおかしなところもあって、後から気がつきます。情けないですねぇ。その都度、修正はしますが。ただし、妙な自尊心だけは持たないようにしています。もっとも、そんなものを持っても、どうしようもないですから。一番いけないのがミスしたからと言って消極的になることですね。

 笑われたらどうしよう、笑われるんだったら、やらない方がいい。一番いいのは目立たないようにおとなしくしていればいいんだというもの。こういうのに、はまるのはインテリほど多いのです。

 わたくしは、インテリではありませんし、まったくの凡人でありますから、ブログは恥知らずを通り越して書いていくのでしょうけれども。許してくださいね。

 しかしながら、仕事だけは、ばりばりしてきました。成果をあげて初めて本物だったのです。国語でも、情報教育でも、道徳教育でも、交通安全教育でもささやかながら自己満足の成果をあげてきました。(^0^)/

 また、武道の世界では負けたらいくら理論でどうのこうのと言っても話にならんのでした。厳しい世界です。ですから、評論家みたいなことは一切言わないことにしています。他人の悪口を言うなら、その人を乗り越えてからにしようと思って来ました。


 もっと凄いのが学者の世界です。高校の同級生に某有名女子大学の教授がいると以前このブログで書きました。凄い世界です。結婚式の時に、わたくしは新郎の友人代表でかなりユニークなスピーチをさせていただきました。その時の仲人が東大教授。岩波書店から学術書をかなり出しているような大学者。奥様は森鴎外の子孫。式場の周囲には東大大学院の博士ばかり。

 (^0^)/状態でした。
 
 いやぁ世間にはもの凄い世界があるものです。学者になるには、学部から東大のような大学を出ていないとなれない、大学院も当然東大レベルでないとなれない、とその時に周囲の方々にお聞きして、そんな世界から相手にされていないことを幸甚に思った次第です。そりゃそうでしょう。

 そういう方々はノーベル賞でも取ればいいのです。

 わたくしにはわたくしの生き方があります。もっとも学者には逆立ちしたってなれっこありません。教育実践の世界、現場のたたき上げに徹してきて、わが生涯に後悔はありません。多くのすぐれた人格円満な生徒たちとの出会いにこころから感謝しております。凡人教師のそれが最高の自慢です。

 ですから、平凡な人間がどうやって学んだかをお伝えできればいいのです。「あんな程度の人間でも、勉強はしていたらしい」でわたくしは満足します。

 どんな結末を迎えるのか。それをお伝えするのが、凡人教師の生き様でもあります。それでもいいのだと思っています。

 学校広報で、ポスター等で本校を選択してくださるのが、一万枚で二人でもいいではないかというマーケティングの書籍を読んでいます。自己満足かもしれません。

 凡人教師のおしゃべりに、何かを学んでいただければ、たとえそれが二万人に一人でも、わたくしは喜んで天の星屑として消え去りたいと真剣に思っておるのです。後三年ちょっとでその時は訪れますが。つまり、あなた方が高校卒業するときに、わたくしは星屑になるわけです(^0^)/ (星屑にすらなれるかどうかは不明ですね)

 では、また明日。


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中游ということ

2008年10月07日 19時32分10秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 中国の雑書を読んでいると(もっともわたくしのは全て雑書でしかありませんが)、俚諺というか、成句というか面白いものがたくさんあります。

 在校生へ申し上げたいことは、それも読んでいただきたいということです。幅の広い知識を身につけていだきたいなぁと思います。

 俚諺の中に、「人不当頭児 木不当軸児」というのがあります。

 木は軸になるなと言う意味もあります。もっと深い意味もありますが、それはここでは触れません。

 むしろここでは、「中游」を言っておるということを申し上げたい。先頭でもないし、ビリでもないということです。

 最近若い人に流行の老荘思想の流れを汲むものです。老子の67章にあります。「アエテ天下ノ先ナラズ」と。わたくしの好きな書籍です。


 マラソンで言えば、中段あたりにつけて悠々とマイペースで走る。トップにも立たず、ビリにも落ちない。人生をそんな感じで走るのなら、大きなトラブルもなく完走できますでしょう。

 しかし、若い人にとっては両刃の剣であります。

 努力しないことの絶好の隠れ蓑になるからです。しばらく風向きをじっと観察して、その日その時で流されることにもなりかねない。つまり主体性がない。

 中游志向は、個人の生き方として確かに安全かつしたたかではありますが、みながみなこういう生き方では、国家から活力が失われてしまいます。

 安全な生き方だけを志向していると、結局なにもできなくなる可能性があります。人に嫌われたくないとか、好かれたいとか、そういう考えでいると、愛情だけが欲しいというようなさもしい根性になってしまいます。

 干されることも人生にはあります。そういうときに、したたかに次のチャンスを狙うくらいの気概を持っていただきたいと思います。一人で生きなくてはならないこともあるのです。

 先頭に立って大いにリードしていけるような人間もまた必要なのです。そういう傑物が出てこないかと、わたくしは今から楽しみにしておるのです。


 

 

 
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鷹山、西郷の大恩師

2008年10月06日 23時16分55秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 「鷹山と平洲先生そして図書館」(7月25日)の記事で細井平洲先生のことを書きました。そうしましたら、「殿様にクビを宣告した平洲の一線の厳しさ」(「人生の師」)という童門冬二先生の文章に接しましたので、またまたここに紹介いたします。

 細井平洲先生、ある大名に望まれて講義をしていたのだそうです。そうしたら、その殿様、こくりこくりと居眠りを始めてしまった。すると平洲先生、使っていた本をまとめ席を立った。脇にいた重役が「お気遣い恐れ入ります」とやったのだそうです。むろん米沢藩以外です。

 さぁ平洲先生「お気遣いとはなんですか?」と聞きます。重役は「殿がお休みなので、お起こししないように講義をおやめくださったのではないのですか」とやってしまった。

 平洲先生「いや、わたしにそんな情けはありませんよ。たとえ殿様でも、講義中に居眠りをするような弟子は見所がありません。二度とお伺いしませんから」と言われた。

 実はこれを寝ていたはずの殿様が聞いていて、すぐ謝罪をしたわけです。

 両方とも人物だなぁと思った次第です。

 あの西郷隆盛が、沖永良部島に流罪になったときに、川口雪峰という流人も先にいました。この人は藩主の島津久光に学問を教えるくらいの文化人で、西郷隆盛にもやはり学問を教えたのです。川口雪峰に教わった本の中に、細井平洲の著作があったわけです。「嚶鳴館遺草」です。岩波の日本思想大系にあったはずです。

 西郷隆盛は敬天愛人を唱えますが、この愛民の思想を持っていたのが平洲先生なのです。むろん上杉鷹山もかなり影響されています。

 そういうやさしい、大きな寛容の人物に思われる鷹山と西郷。彼らがともに信服していた細井平洲が、実は学問に、自分に厳しい人であったということを一番言いたいわけです。わたくしとしては。


 授業で居眠りをしている人はいませんかな?
 一瞬たりといえども、懈怠は許されませんぞ。県銚の卒業生はどこまでも飛翔していくのですから。自分の中の無限大(∞)の可能性に対して申し訳ないと思うべし、であります。そういう可能性をみんな持っておるのですから。いやぁ、自分だけはそんな∞なんて記号みたいなものは持ち合わせていないなどと言う無かれ。ラッキョウのように剥いても剥いても皮ばかりだというのでは当てになりません。梅干のように、剥いたら中から天神様と呼ばれる硬い種が出てくるようでなくてはなりませんぞ。(食べ物としてのラッキョウはわたくし好きですが)

 叱咤激励です。

 自分自身へですよ。


 では時間となりました。

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銚子を知りたい

2008年10月05日 07時52分37秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 県立学校とは言え、銚子にお世話になっておりますから銚子のことを知ろうとしているのですが、なかなかよく分からず現在鋭意勉強中です。食事のおいしい店にはじまり、銚子の歴史、有史以来の科学的なこと、植物の分布、屏風ヶ浦の自然、銚子について書かれた書籍等々。知らないことがたくさんあって、銚子に関する資料を集めたり、インターネットでも「県銚」「銚子」というKEY WORDで、自動的に情報を収集させています。善悪すべて茅屋のパソコンが拾ってくるので、笑ってしまいます。生徒のプロフも出来るだけチェックしています。在校生は気がついていないでしょうけれども。

 先日、知人と銚子で食事を共にしました。旧交を温めるということでした。このブログも読んでくださっており、いろいろと話に花が咲きました。そして、カテゴリーを二つに絞っているからでしょうが、「愛のある」ブログだと過分なお褒めをいただきました。思わず我が耳を疑いましたが。生徒たちに語りかけているからでしょう。生徒のことを思えばこれは当然そうなります。教師の宿命みたいなものです。

 その時も申し上げました。カテゴリーを絞っているからやれるのかもなぁと。読書紹介なら質的にも量的にも、もっともっと読んでいる方はたくさんおられるし、そんな不遜な意味でこのブログを立ち上げたワケではありません。学校紹介、学校広報ならこんなたわいもないブログなんかより、もっと工夫されたホームページがたくさんあります。県銚公式ホームページもそうです。実によく情報を提示してあります。部活の紹介についても、教育課程についても実に細々と情報提示してあります。要するに、同じものを二つ作ってインターネットに載せるわけにはいきませんから。傾向が違って当たり前です。しかも、こちらはいつでも閉鎖できますし。残された短い県銚生活の中で、出来るだけのことをさせていただきたいと思っておりますので。それがわたくしのアイデンティだと決めております。


 昨日、旭で高校説明会が行われました。盛況だったようです。中学生の皆さんがどういうふうに我が県銚をとらえておられるのか、事前に接触するわけにはいきませんから不可能ですが、とても聞いてみたいことの一つです。来年の入学生にはぜひともアンケートを実施してみたいと思っています。中学3年生のころに、県銚をどう評価していたのか、あるいはどの情報伝達手段で県銚進学を決めたのかということを。
 もっとも、銚子について知りたいと言っているより、こちらの方が優先事項だと言われそうですけれど。

 待っています。



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老成ぶる

2008年10月04日 22時00分02秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 橋本左内は「稚心を去れ」と言っていて、それは実に重要だと思います。いつまでも子供っぽい人間ではいかがなものかと。

 自立して世間の荒波に揉まれて生きていけるかどうかということを、最近の中高生をみていると感じてしまいます。一人暮らしすら、保護者の援助なしにはできないということだそうですから。一人暮らしをしたい、瀟洒なマンションで暮らしたいとか、そういう専門の雑誌まであるんだそうですね。

 稚心というか、稚気というのは会話を聞いているとよくわかります。まるで小学生のような内容しか話せないという人もいるんですから。どういう頭の構造なのだろうと、はてなマークがたくさんついてしまいます。特に公共の場で、電車も含めて、ばかでかい声を出して、内容のない会話をしないほうがよろしいですよ。周囲の人には聞こえているのですから。携帯を電車の中で使ってはいけないというのは、マナーもそうですが、そういう自分のくだらなさを周囲にアピールしないという恥の文化でもあるのですよ。心してくださいね。

 今日はもうひとつ。

 「老成ぶっている」ということ。

 若いのにそういう人がいます。教師の子供とか多いと言われます。周囲の方々に、いろいろなことを言われて、行動にあるいは言動に規制がかかってしまうタイプ。いつもいつも自分を抑えて生きているから、なかなか本音を打ち出せない。つまり、「・・・しなくてはならない」という固定観念を持ちすぎてしまうタイプ。

 老成ぶっているということは、「ぶって」いるだけでナカミは伴わないわけです。表面上、そうしているだけで、もっと言えば外敵からの攻撃をそれで防御しているタイプなわけです。

 思い当たる人は、部活動や社会体育、社会活動、ボランティアをやった方がいいと思います。

 自己を打ち出す機会を持った方がいいのです。そうした活動は、年齢の幅があるから、覇気のある生き生きとした生活を送ることができるようになります。ただし、部活動オンリーではいけませんよ。文武一貫です。それに部活をやって将来金もうけをしようというのは邪道ですよ。本当にこころから楽しめるものでありたいものですよね。

 13年前に幕張の教育センターの仕事についてから高校柔道部の顧問からは離れてしまったのですが、体験上自己を打ち出す機会としての武道というものがとても重要だと思ってきました。やる気さえあればどこでもできるわけです。学校の部活ばかりではありません。社会体育での取り組みもまたいいものです。

 老成ぶらないためにも。もっとも、わたくしの場合は、老成ぶらずとも、老成そのものの年齢になってきて、むしろ歳のわりにナカミがないことを恥ずべき時期になってきましたか・・・。

 また、明日。

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過去に縛られず

2008年10月03日 23時16分31秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 霜田静志先生のことを前々回書きました。(「育児法について」)

 今日、読書ノートを見ていたら、1996年11月12日10時37分38秒に印刷したデータベースの資料が、A4バインダーに挟んであったのです。まさに国分康孝先生が霜田静志先生のことを書いてある部分を抜書きしていました。(「教師の教師」国分康孝著)よほど印象が深かったのでしょう。両方の先生とも心理学や哲学、カウンセリングなどの大学教授ですから、わたくしごとき人間がお付き合いいただけるような方ではありません。

 「人をあてにせず、自力で生きる姿が霜田にはあった」

 こんな思い出を国分先生は書いています。
 
 「この道や、行く人ともなし 秋の暮れ」

 霜田先生が語られた心境だそうです。「僕は、昔からこんな気持ちで生きてきたんだ」とも。

 また、別の章では、「フロイドでもニイルでもなんのバックもなかった」と言われたそうです。

 つまり、門閥・学閥にとらわれることなく、その影響も受けずに、自分が動かなければ人生が動かないという境遇に立つということは、最高に生命力を燃焼させることになるから、かえってよかったと仰る。これもまたしびれるような発言です。

 自分の生き方・生活をバックボーンにしていないと、自分の思想・哲学を育てることはできません。世話になった方に教えていただくことはできますが、それだけでは自立していけない。その意味では確かに人間には限界があるのかもしれませんが。

 自戒の意味を込めて言っているのですが、「***は~~~と言っている」「AAAAはBBBBと言っている」という引用・紹介オンリーの思考形式をとっていると、それだけで終わってしまいます。元になる原典があって、それをただ引用・紹介するだけなら、誰にでもできると思います。ましてやインターネットのこれだけ発達した世界では引用・紹介型では高が知れている。要は自分がどう考えたかであります。この点で、最近の大学生の特に国語関係の卒論は情けないと思っている一人でありますが。

 バックがなかったということは、わたくしも同様なものでした。求めても相手にされずというところから、スタートしたわけです。あまり詳しくは書けませんが、そういうことです。だからこそ、ここに書いた先生方の生き方に共感したのかもしれません。国分先生は、最後は筑波大学の教授でお辞めになりましたが、ニイルの研究をすることによって、随分な回り道を強いられました。干されたことも幾たびかあったそうです。


 覇気を持って生きるということをわたくしはこの両先生から学びました。誰もやっていない分野への切り込み隊長の気概です。フロイドも、ニイルもそれまでの学会に敢然と挑戦していったわけですから、いわゆるなぁなぁ主義ではありません。徹底して勉強されたのだろうと思います。それでなくては、あれだけの実績を残すことは不可能です。過去に縛られなかった方々なのかもしれません。

 過去に縛られるというと、ああすればよかった、あの時あれさえなければ、こうしておけばと反省することです。わたくしも含めて、誰しもそうかもしれません。ついつい過去に目が行き、愚痴を言ってしまいがちです。

 されど、縛られるのならばそれは過去ではなく、「今」です。過去の過ちを考えているより、今、たったこの瞬間に間違ったことをしていないかどうかを考えるべきであると思います。このあたりのことは、「言志四録」の「昨非と今過」にあります。つまり、過去を後悔するひとはあるが、現在していることの非を改めるひとは少ない、と。

 「今」を志向しているのなら、バックがどうのこうのという発想はあり得ませんから。

 在校生諸君!
 
 過去に縛られることなく、今この瞬間から、自分の実力をつけるために、覇気ある行動で勉強しましょう。

 がんばってください。

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香りのはなし

2008年10月02日 19時28分56秒 | 先公ごっこ2008年から2012年

 一昨日の30日に千葉科学大学の遠藤将一先生から、香りの話ということで、大学キャンパスで講義をいただきました。高大連携事業の一環であります。

 一年生の希望者が、午後4時から一時間ほど受けさせていただきました。

 当然、わたくしも受講しました。本格的に学んだら、こういう分野も興味津々であります。が、理系の学問はわたくしのような者にははかり知れないほどの難解な深みがあります。実際、わたくしの卒業させていただいた高校の理科系の人間たちの頭の良さは言語に尽きせぬほどのものがありました。数学がかなりできる高校でしたから、そして高校の先輩が先生でしたからそのスパルタたるや半端なものではありませんでした。指名されて黒板の前で問題を解かされるのですが、できなくて黒板の前で立ち往生していると、厳しくやさしくご指導をしていただきました。今もってありがたい限りです。しかしなにより、できない、解けない自分の勉強不足と理系のセンスの無さを呪ったものです。なんと言っても、数学だけで一日3時間やれと厳命されていましたから。それでもできないという情けない話です

 しかし、わたくしのようなものでも理解できるようにお話いただいたことにほんとうに感謝申し上げます。

 サケの回遊とか、なぜ帰ってこれるのかということを、香りの話からお聞きしたのは初めてでした。またミツバチの女王蜂が香りを出して、働き蜂をコントロールしている、卵も産めないようしている、そういう能力を失った女王蜂は・・・・とか大変楽しくちょっぴりかわいそうな内容でしたが、ためになる講義でありました。遠藤先生、ありがとうございました。

 外は雨が降っておりましたが、帰りは充実した気持ちで帰ってきました。

 ほんとうにありがたい限りであります。

 県銚に来るとこういう体験もできるのですよ。
 

 これから千葉に出かけなくてはなりません。また明日お目にかかりましょう。昨日のアクセス数が過去最高でありました。こころから感謝申し上げます。

 それでは、明日また。

 

 
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悩みへの対処

2008年10月01日 23時22分47秒 | 先公ごっこ2008年から2012年
 昭和62年6月27日のわたくしの読書ノートをひっくり返していましたら、面白いことが書いてありましたのでついつい紹介してみたくなりました。

 在校生たちが、元気に昼休みを楽しんでいるその声を聞きながら、生徒の成長の少しでも助けになればと思ってのことです。

 中高生時代というのは悩みを持つことが多いと思います。わたくしなぞ、今でもそうですが。

 で、くだんの読書ノートは、「人間の悩みのかなりの部分は、人とこころのふれあいが持てないことに起因している」とか書いてあるのです。

 20数年前にそんなことを考えていたのかという思いがして、ずんずんとノートを読み始めました。

1 教職を楽しめ 仕事には、WorkとLaborとある。Workには楽しみがあり、自分のパーソナリティの表現がある

2 シナリオ人間ではいかん。自分から仕事を見つけ出せる人間であること

3 役割を媒介とするつきあいだけだと、役割の喪失とともに人生と分離してしまう

4 われわれは決して自分だけで生きているわけではない。縁があって生きている。人様のおかげで生きている。

5 役割の世界に安住していると、わずらわしい人間関係から逃れたと喜んでいると、人間としての原点を見失うことになる

6 魅力ある人間とは、役割を抜け出した自分を表現している人物のこと

7 ベタツキというのは、愛情乞食。自分の苦境を語るのもこれ

8 ものに動じないため、やたらに人にべたつかないため、人生が自分にとってどういう意味があるかを把握しておくこと
 
9 人生の意味 自分で人生の意味を創造せよ。若干の不安と孤独に耐えよ。天上天下唯我独尊でいけ。創造のためには多様なものに触れよ

10 人間は、人生で自分を賭けるものを持っているとき、不安・孤独に打ちひしがれることはない

11 われわれは、人生で、自分のなしたいこと、なすべきことを持たねばならない。自分の居場所(アイデンティティ)を持て

12 悩む人間は、まともでないビリーフ(固定観念)を持っている人 受け取り方ひとつなのだ

13 人に好かれねばならぬ こういうビリーフを持ってはダメ。人に好かれないと自分では生きていけないと思っているから。本当は、一人でも生きていける、人に好かれるのにこしたことはない、と思うこと

14 親心(父母性)、おとな心(計算)、子ども心(純粋)を持て

15 人生ではふれあいを拒否しないと生きられないこともある。生きる哀しさとはそのことだと思う

16 自己嫌悪とは、あるがままの自分を認められない人 そういう人は他者をも嫌悪する

17 凡人中の凡人でなぜいかんか 凡人とは、無理の無い力まない生活をしている人のこと

18 成長とはナルシズム(うぬぼれ、自己中心性、万能感)が崩壊していくこと



 これくらいにしましょう。

 どういうことを感じましたか?

 またこのブログで語ってみたいことの一つです。

 時間になりました。

 また、明日。

(国分康孝先生のつきあいの心理学からの読書ノートでした)

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/