と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

3月24日(金)のつぶやき

2017年03月25日 04時55分21秒 | とーま君の流儀2017
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ボランティアなんてウソだろう?ってバカにされたことがあったが・・・

2017年03月24日 09時07分47秒 | とーま君の流儀2017

あんまり他人をバカにしないほうがよろしい。オノレだけが崇高なのではないのである。そこらあたりを理解していないと、アカン。懺悔をしなくちゃいけない。悪業のである。

 

 

成田山新勝寺のいろいろな企画イベントや学習講座に通うようになって二ヶ月。仏教文化講座とか、七誓会という会でのお経や法話を体験している。月二回である。ちょうどいい間隔である。九十九里浜からちょっと時間はかかるものの、通うだけの価値はある。

なんと言っても、信仰心がないからなんでもやれる。やるしかない。万教帰一である。仏教だけではない。バイブルにも関心があったから、もうほとんど病気である。

なぜこんな風になったか。それは、ボキもまた死んじゃうからである。100%。そして死の問題を解決できていないからである。

死のことを考えるとおめおめと生きていられないのである。だらしなく、やってられないのである。今日死ぬか、明日死んじまうかと思うと、ダラダラと生きていたら後悔しちゃうではないか。毎晩毎晩夜の巷に出かけていって、アホなミニスカオネーチャンを追いかけていたらあっと言う間にジ・エンド。死んじゃうのである。バカバカしい。

その点で、生者必滅まさに奢れるもの久しからずの世界である政治も一緒である。がっかりすることのみである。昨日の国会についてはほとほと呆れたからだ。なんというこっちゃと思った。証言している方も、追求している方もである。マスコミもである。言いたいことは言い放題。聞きたくないことは、耳が悪いことにしているからだ。シランぺぇである。マスコミだって、取材方法で間違ったことがあったら、それこそ真剣に謝罪したことがあったのか。三行広告みたいに簡単に済ませて、あとはほっかぶりである。

呆れてものが言えない。だからこれくらいにする。打鍵しているとハラが立ってくるからだ。

最近では、その政治の世界やマスコミを真似しているヤカラも多い。言いたいことは言い放題、言ったことにはまったく責任をとらないのじゃ。ジジイもババアも、セーネンたちもネーチャンたちもだ。

さらにある。思考がワンパターンである。ボランティアで町内の役員をやっているが、祭の後に役員でご苦労さん会をやったらしい。ボキは、アルコールとミニスカートを見るのもイヤだから参加していないのじゃ。それをである。いくらかかったのだ?と聞いてくるヤカラもいたからだ。寄付しているからであろう。1000円。一軒当たり。意図は見え透いている。情けない。役員をやっているということは、イコール悪なのである。これじゃぁ、ボランティアも糞もねぇではないか。好きでやっているのではない。順番だから、あるいは他にやる人がいねぇからやっているだけである。

もっとある。某文芸賞の審査員をさせていただいたが、あれも完全にボランティアであった。旅費も自弁。大会当日に昼食の弁当をいただいただけである。ご苦労さま会もあった。こちらも自腹である。そばを食った。それだけである。それで満足してきたのである。だから、自腹で審査員やって、自腹でご苦労さん会をやってそれ満足しているだけなのである。

そういうことを疑ってくるヤカラの考え方が情けないと思うのだ。ボランティア精神なんて永遠に理解できないのだろうなぁと思う。

そういう悪業を成田山新勝寺の不動明王はじっと見ている。悪業三昧の人生をである。

だからあんまり他人をバカにしないほうがよろしい。オノレだけが崇高なのではないのである。そこらあたりを理解していないと、アカン。

懺悔をしなくちゃいけない。悪業のである。

もっともボキは人のこたぁ言えないけど。

あ、懺悔というのは「サンゲ」と読むのだそうな。仏教書によると。これもまた知らなかったですなぁ。知らないことばかりである。(*_*) マイッタ。

 

さ、これから図書館である。歩いて行く。

懺悔しつつ。

わははっはははっははははっははははは。

(^^)/~~~

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月23日(木)のつぶやき

2017年03月24日 05時02分56秒 | とーま君の流儀2017
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

両親が喧嘩ばかりしていると、幼児教育上非常に良くない。孫がもうじきやってくるから、そんなことを考えたよん。

2017年03月23日 08時26分46秒 | とーま君の流儀2017

夫婦は少しくらい面白くないことがあっても我慢である。え? お互い様だと言われてしまうですな。

 

 

そろそろ学校も年度末なのかな?と思った。思ったというのは、正確には知らないからで。そうなのだ。もうすっかり記憶がぶっ飛んでいるのじゃ(⌒▽⌒)。

せいぜい近所の小学生が、朝登校しなくなったら学校もオシマイになったのかなと感じる程度である。

朝、雨戸を開けていると近所の小学生や中学生が登校していくからである。そういう光景を見ながらたまには朝の挨拶をすることもある。毎回だと子供達も警戒するだろうから。妙なジジイが、声をかけてくるって。

学校が終わると、4歳と2歳の孫達が遊びに来る。楽しみである。保育園に通っているのだが、爺婆のいる九十九里浜までやってくるのである。クルマに乗って。爺婆のこっちも楽しみであるが、孫達はもっと楽しみであろう。普段は狭いアパート暮らしである。走り回れない。ボキンチは、走れる。それなりにである。廊下もあるし、二階もある。ボキの子供達は全員巣立ちをしてしまって、子供部屋であった部屋は空き室になっているし。

やりたい放題である。好きなようにさせている。男児二人であるから、こんなに楽しいことはない。ボキ自身の経験でも、祖父の家に行ったときは楽しかったのである。10部屋くらいあった大きな家であったから、探検の連続であった。それがあるからおおいに遊ばせているのだ。

こういう幼い時の体験というのはけっこう重要であると思う。人格形成の基盤を作っているとまで思う。

なぜか。

考えるからである。感じるからである。だから幼児教育は重要なのである。両親が喧嘩ばかりしていたら、子供はけっこう傷つく。子供は子供なりに考えているのである。なんで、ボキの両親はあんなに仲が悪いんだろうと。そして理由まで考えてしまう。

両親の喧嘩の理由まで考えさえてはアカン。大人社会のみっともなさを教え込んでいるようなもんだ。

これから世の中に出ていこうとしているのに、大人社会が巨悪に満ち満ちていて、不幸な出来事しかないと教え込んでいたらアカン。

ボキのようなひねたガキになっちまうからだ。そうなのである。ボキの亡父・亡母は喧嘩ばかりしていたからだ。議論が好きで、今になって思えば、くだらない哲学的用語をどう解釈するかというようなことで議論していた。アホカイナと思っていた。議論が昂じると、喧嘩になっちまう。

今考えてみれば、亡父亡母ともども哲学なんて素人だったのにねぇと思う。ずいぶん、無駄な時間を費やしていたものである。

しかも、ボキはその議論の殆どを聞いていたのである。二階にあったボキ等兄弟の部屋で。階段の上で聞いていた。だって、うるさくて眠れないではないか。オヤジとオフクロが、レーニンがどうのこうの、スターリンがどうしたこうしたとやっていたのである。無理もなかった。オヤジは、シベリア抑留の犠牲者であったからだ。

そういうことならわかる。今になってわかってきた。そうだったのかというわけである。今さらわかったってもう遅いけど。死んじゃったからだ。

ま、夫婦は少しくらい面白くないことがあっても我慢である。

え?

お互い様だと言われてしまうですな。

わははっはははははっははははっはははは。

オシマイ!

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月22日(水)のつぶやき

2017年03月23日 05時00分42秒 | とーま君の流儀2017
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

知ったかぶりもいいところだが・・・明恵とか、お地蔵様とか、不動明王とか打鍵していいのかね?

2017年03月22日 08時50分42秒 | とーま君の流儀2017

「男性の中の女性像。(アニマ Anima)」「女性の中の男性像。(アニムス Animus)」

 

 

ユングのいうところの「アニマ・アニムス」の考え方は、なかなか参考になる。つまり、お地蔵様と不動明王の関係を考えるときに、実に納得したからである。もっとも、ボキだけかもしれないのだが。こんなことを思っているのは。一昨日あたりから、そう思い始めただけであるし。まだまだ最近のことであるから。

現代の日本女性は、まさに男女関係をおおいに見直している最中である。アニムスの発達に心ひかれているからだ。そして、それを成し遂げつつある。男性もそういう時代になったのなら、アニマの発達に興味関心を持ち始めていると思う。いわゆるジェンダー論というのは、そういう背景もあるのだろうと愚かなボキは感じているのだが。

心理学「も」素人なので、知ったかぶりはしない。あくまでお地蔵様と不動明王である。こっち「も」素人であるけど。

つまり、母性的な概念としてお地蔵様、男性的な概念として不動明王という位置づけで考えているのじゃ。包み込むような柔軟なやさしいお顔のお地蔵様もいるからである。逆に不動明王は恐ろしい、男性的な力感溢れる表情をしておられる。クチをキクのもはばかられるような感じになっちまう。

女性というのは、包み込むという感じが一番あたっているような気がする。ドストエフスキーの「罪と罰」に登場してくる酔漢マルメラードフが、あるいは主人公ラスコリーニコフが、娼婦ソーニャに見いだした安心感というようなものが、包み込むという感覚に近いのではないのか。ドストエフスキーのこの作品を、「男性の中の女性像。(アニマ Anima)」「女性の中の男性像。(アニムス Animus)」という観点から読んだらおかしいのかもしれない。しかし、ボキは実際十代後半にドストエフスキーにムチュウになっていたときにそう思ったのである。新聞販売店の狭い二段ベットで読んでいたから、なおさら貧乏なラスコリーニコフがまるで自分のことのように迫ってきたっけ。酔漢マルメラードフもまた同じであった。絶望と苦しみ。貧乏が追いかけてくる苦学生時代に、まったく身にしみたドストエフスキーである。娼婦のソーニャは、苦しい生活を送っていたボキにはまさに包み込んでくれるような存在であったのだ。お地蔵様であったのだ。少なくとも、かの恐ろしい不動明王ではなかったのだ。

そして、一昨日、この「アニマ・アニムス」の観点から仏教を考えていたのが明恵であるとはたと思ったのである。

明恵は、有名な禅僧である。樹木の上で座禅を組んでおられる絵図が有名である。明恵上人像(樹上座禅像)・高山寺蔵というのを見ながら打鍵しているのだが、実はボキこの高僧が嫌いだった。樹木の上で座禅をしているなんて、あまりにも見え透いたウソだと思っていたからある。虚構がまかり通っていると思っていた。

しかし、史料は別の面を物語る。夢を語り、それを記録していたからである。「夢記」である。こういう高僧もなかなかおられないだろう。恋愛もされたらしい。おっと、これを書くと寺院の方々に叱られてしまうからこれくらいにするが。

ともかく、こういう観点からお地蔵様と不動明王を考えていくのも楽しいことである。

もっともアレか。

不動明王様が恋慕していたというのは、考えにくいが。あの顔だしねぇ。もっともボキも人のこたぁ言えねぇけど。

わははっははははっはははは。

 

(^^)/~~~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月21日(火)のつぶやき

2017年03月22日 04時56分47秒 | とーま君の流儀2017
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お地蔵様と不動明王をお二人並べて見ていると、不思議な感覚になってくるのだが。所詮平民だしねぇ、こっちは。

2017年03月21日 07時37分20秒 | とーま君の流儀2017

やさしさと怒り。これは経験上一対である。表面的にはやさしくても、根底には怒りがあるかも知れないではないか・・・

 

 

成田山新勝寺で真言宗智山派のお経を教えていただいてから、不動明王に対する考え方がおおいに変わった。もっとも、「~~に対する」という言い方が不遜である。ボキ如き悪業三昧の一般大衆がなにをかいわんやである。そもそも相対化していること自体が間違っている。所詮、ボキのようなもんには無理な話ではあるが。

これまでは、路傍のお地蔵さんが大好きであった。微笑をたたえているお地蔵さんが特にいい。なぜか。安心できるからである。やさしいではないか。ボキにはないやさしさがある。こういう存在でありたいとしみじみ思う。できないけど。

でもねぇ、やさしいお地蔵さんのようになることはできない。不可能である。

ホントウに時として憤怒を味わうことがあるからである。怒りが、ボキのパワーの根底にある。だから生きてこられたのかもしれないと思っている。社会や政治への憤怒。システムへの憤怒。デタラメな人間への憤怒。人のカネを不正に使って恥じることのない泥棒的バカ。

だから新聞やテレビを見る気がしなくなってくる。

そういうモロモロをやさしいお地蔵さんは、包んでくださっている。

ところが、あっと思ったのは不動明王である。お地蔵さんと対になっているのではあるまいかと思ったからである。

やさしさと怒り。

これは経験上一対である。

表面的にはやさしくても、根底には怒りがあるかも知れないではないか。

そうだとすると、お地蔵さんは油断できないということになる。やさしそうだから、全面的に委託してゆだねる。楽しみも哀しみも苦しみも全部である。全面的にお地蔵さんに投げかけて、後はシランペとやっちまうのだ。

つまり、お地蔵さんと不動明王は二面性であるということである。そう理解した方が庶民のボキにはよくわかるような気がする。宇宙を支配している真理が大日如来なら、その下にあるのが二面性としてのお地蔵さんと不動明王なのではないのかと思った次第である。こんなことを打鍵していたら、専門的に勉強されている僧侶の先生方に叱られてしまうが。もっとも、それだからこそプチ修行日記として再スタートしたのである。生涯学習ごっこをである。

宗派にとらわれず、いろいろと勉強してみたい。だから、あちこちと手を出していくつもりである。ホントウにそれだけなのである。

死とはなにかというボキの大疑問について考えていきたい。

近所のもめ事とか、政治のもめ事とか、経済の迷路とか・・・・・マスコミに登場してくるような話はホトホト愛想が尽きた。森友小学校問題なんか考えただけでキレそうになっちまう。

ああいう問題を追いかけていて、最後はミンナ死ぬんだということをどうすんのかねと感じるからである。つまんねぇ話題に時間を割いていることはできねぇのじゃよん。

なにしろ、こっちは時間がない。いつ死ぬか分からねぇからである。

わはははっはははっはははっははは。

 

今朝は九十九里浜も雨である。こういうときは、じっとしていないで外出して歩くことである。シトシト降っている雨を見ていたら、気持ちが暗くなってしまう。老人性の鬱になったらアカン。

さ、今日も元気に生きて参りましょう。

(^^)/~~~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月20日(月)のつぶやき

2017年03月21日 04時52分56秒 | とーま君の流儀2017
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コマッタちゃんの高齢者に学ぶ・・・お互い様だけど(⌒▽⌒)

2017年03月20日 08時28分45秒 | とーま君の流儀2017

○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。・・・・うううううむ!こんな難しいことはない。

 

 

一言居士というのがいる。高齢者に多い。自分が世間に通用しなくなっているのがわからなくて、周囲に文句ばかり垂れているヤカラである。あるいは、前の職場がすばらしいエリート集団であったとか、役職についていたとか自慢ばかりしているアホである。しかも、近所にそれをまき散らすものだから迷惑千万。酷いのに到っては、出身大学の自慢まで聞かされる。

(*_*) マイッタ。

ボキだけは、そういう高齢者になりたくない。もし、意識していなくてそういうくだらない台詞を吐いているようだったら自戒すべきである。いろんな場所で、そういうコマッタちゃんの高齢者に出くわすからである。町内の役員もさせていただいているし、今月まで在籍していた老人大学も高齢者のデパートであったから。

ブロガーでもいる。説教垂れて得意がっているのが。さも、オノレはすばらしいインテリであるとかのたもうている御仁。あるいは、オノレ一人だけの孤高を気取る御仁。もっとも、孤高というのはオノレ一人のことを指しますなぁ(笑´∀`)。

毒を周囲にまき散らして、得意がっていちゃいけねぇのだよん。ジジイやババアになったら、周囲に迷惑をかけないで生きているこっちゃよ。

それをだ。どっかの某政党のように、なんでもかんでも全部与党のせい、雨が降っても与党のせい、地震がきても与党のせいとやっていちゃ危なくねぇのかと感じるからで。そもそも某政党はかつて偽メール事件で取材情報の誤認をやっちまって、当時の党首の辞任問題までなったのに、懲りないようである。今回も世間を騒がせているけど。大丈夫なのかね。よくわかんねぇが。この事例の場合、ミンナでウソをついている可能性もあるから注意しなくちゃいけないけど。真実だけが、隠されているかもしれないから。

こういう姿を見せつけられると、イヤになっちまう。みっともなくて。こうやって争っていて、青少年に悪影響を及ぼしているってどうして思えないのかねぇと思う。しかも国家を代表している御仁ばかりではないか。情けない。

根底に相互比較があるからだ。徹底した相互比較主義。あいつとオレとどっちがエライか、エラクないかという奴である。学校秀才のなれの果てである。ボキとは違っているのじゃな、これが。ボキはクチが腐っても、学校秀才だったとは言えないからだ。

こんなくだらないことを毎日見せられたら、うんざりしてしまう。もっともこんなことでもって、影響されていたらたまらねぇではないか。精神衛生上。

だから、正岡子規がいみじくものうたもうたように、「平気で生きる」ことが大事だと思うのである。これは俳書で知ったのであるが。正確には、正岡子規の「病牀六尺」である。この部分である。

 

 

二十一

○余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。

○因ちなみに問ふ。狗子くしに仏性ぶっしょうありや。曰いわく、苦。

 また問ふ。祖師そし西来の意は奈何いかん。曰、苦。

 また問ふ。………………………。曰、苦。

(六月二日)

 

 

良いことをのたもうている。正岡子規は。そして、多くの宗教家もこの部分に触発されている。

ボキ?

ボキは、無理じゃ。無理。絶体に無理。悟っていないし、永遠に無理じゃな。

わははっははっはははっはははっは。

 

(^^)/~~~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月19日(日)のつぶやき

2017年03月20日 04時56分16秒 | とーま君の流儀2017
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな旅・大本山成田山新勝寺

2017年03月19日 08時49分22秒 | とーま君の流儀2017
平和大塔が良かったですなぁ。
まさに曼荼羅の世界ですな。
半日いても飽きないです。
しばらくしたら高野山にも行ってくるけど。
高野山大塔も、これで三度目になるから。
飽きないですなぁ~~~~。




2015/11/22 に公開

2015.11.21 成田山で紅葉まつりを開催していると言うので訪れました。
3年前の成田祇園祭以来です。
年末年始には日本No2の300万人の初詣客が押し寄せますが、普段は外国人もチラホラとお参りしているお堂によっては静かなところで、海外に一番近い大寺院です。
成田山内のお堂は全て巡りました。
参考に祇園祭の映像を組み入れてます。

成田山公園
https://youtu.be/YnC9HcasH6Y

成田祇園祭part1
https://youtu.be/IL8NJyvY6lA
成田祇園祭part2
https://youtu.be/rty_Nz4d7o0
成田祇園祭part3
https://youtu.be/YXNJCGqrWFc

旅リスト
https://www.youtube.com/playlist?list...

総武本線成田線沿線ハイキング
https://www.youtube.com/playlist?list...

 

 

小さな旅・大本山成田山新勝寺

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田市内で二年間勤務していたのに、寺院の歴史も宗派の内容も全く知らないということがわかって

2017年03月19日 08時23分32秒 | とーま君の流儀2017

新勝寺で教わったこと→恩返しをするのは当然であるし、さらにいろんな方々からいただいてきたご恩を、「恩おくり」していくこと。それが大切であるということであった。これからもボキは成田山新勝寺に通うことにしている。幸い、老人大学も卒業できたし。時間だけはたっぷりあるから(笑´∀`)

 

 

「ブラタモリ」や「鶴甁の家族に乾杯」で、今年の正月三日ごろにNHKで成田山新勝寺を扱っていた。あれを見てから、成田山新勝寺のことを全く知らなかったと(_ _ )/ハンセイしていたのである。それに、成田山市内の高校に二年間headteacherで勤務していたのに、寺院の歴史も宗派の内容も全く知らないということがわかってから、興味関心を持ち始めたのである。居住地にも成田山新勝寺の宗派である寺院がたくさんあるし。

それで、成田山新勝寺法話に行ってきた。受講生である。夫婦共々である。昨日である。午後の1時30分から。大本堂地下一階であった。ちなみに無料である。月一回やってくださる。信徒でなくてもOK。ボキのようなまったくの門外漢でもよし。事前予約も必要なし。詳細は新勝寺のHPに出ている。出ているからボキも行ってみたのである。電話だけはしたが。

場所も成田山新勝寺は境内が広大だから、わからない。あちこちいろんな方々に聞きながらヨレヨレと会場まで行ってみた。

最初に真言宗智山派の経典の読み方を教えていただいた。さらに御詠歌。最後に法話。全部で二時間。三人の僧侶が登壇された。あっと言う間の体験であった。専門の僧侶から教えていただくのであるから、充実している。ありがたいものである。

最近は、まさに終活活動をやっている。だから真剣である。

それに終活もボキは初心者であるから、死ぬということがよくわからない。死ぬということはどういうことなんだろうかと非常に興味があるのだ。死んだ人から聞いてみたいが、そんなことは不可能じゃなぁ(笑´∀`)。知ったとたんに、あの世に行ってしまうのだからあまり意味がないんだろうけど。

もっとも生きることもよくわからないがねぇ~~~。

いろんなことがよく分からないまま、生きてきてしまった。なんも知らないままである。仕事仕事で、そういう問題から逃げてきたのだ。考えたくなかったのだ。

思えば無駄なことをしてきたもんである。若いころからの疑問点をもっと考えて生きてくればよかった。カネカネ・ビジネスビジネスだけの人生はさみしいから。

結果、ボキはカネも儲からなかったし、ビジネスでも成功しなかった。成功なんかと無縁でやってきたのである。それはそれで仕方がない。

そんなことよりも、無償の奉仕をせよと昨日は法話で教えていただいた。

見返りを期待しない生き方である。それこそが不動明王の智慧であるとも教えていただいた。これこそこれからのボキの目標とすべきものである。

オレがオレがとか、あるいは他人を見下し、オレこそ世界で一番エライとかというくだらない世間的なモンでつまらない半生を生きてきてしまったのではないか。

そう思った。

恩返しをするのは当然であるし、さらにいろんな方々からいただいてきたご恩を、「恩おくり」していくこと。それが大切であるということであった。

これからもボキは成田山新勝寺に通うことにしている。幸い、老人大学も卒業できたし。

もっとある。宗派にとらわれない学びもやっていきたいと思っている。マジに。

さ、今日も天気がいい。

歩いてこようっと。

 

(^^)/~~~

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

3月18日(土)のつぶやき

2017年03月19日 04時55分14秒 | とーま君の流儀2017
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田山新勝寺 表参道編|成田応援プロジェクト これから成田山でそばを食ってくるつもりなり(笑´∀`)

2017年03月18日 08時16分05秒 | とーま君の流儀2017
今日はこれから、成田山新勝寺に行く。美味いそばでも食ってくるつもりじゃ。
ホントは、午後1時から本堂で行われるお経の話を聞きに行くのだけれども。
真言宗智山派にかなり興味関心があるから。
 



2016/12/18 に公開

成田ご当地アイドル!?モデル!?成田沙里と一緒に巡る
「成田山新勝寺 表参道編」の美味しいお店等を紹介致します。

  • カテゴリ

  • ライセンス

    • 標準の YouTube ライセンス

 

成田山新勝寺 表参道編|成田応援プロジェクト

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/